言えば言うほどウソ

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あるとき、弁護士事務所にお願いをした人の話を聞きました。「親切、ていねい」という看板を出しているので、頼んでみたところ、親切でもていねいでもなかったとのことです。これはもしかしたら、親切でもていねいでもないから「親切、ていねい」という看板を出しているのではないか。「親切、ていねい」という看板そのものが、その弁護士事務所が親切でもていねいでもない証拠ではないだろうか。とそのように思ったのです。

以下のような例が適切かどうかはわからないのですが、約1年前、東京オリンピックのころ、ずいぶん「安心、安全」という言葉を聞いた気がします。あれも、安心でも安全でもなかった証拠であったようにも思えるわけです。安心でも安全でもない「にもかかわらず」ではなく、安心でも安全でもない「からこそ」安心、安全と言っていたのではなかろうか。東日本大震災の当日、当時の首相が「原発は大丈夫です」と言ったことを私は忘れていません。

聖書の言葉から出します。新約聖書テモテへの手紙一の5章1節以下で、「年長の男性を叱ってはなりません。むしろ、父親と思って諭しなさい。若い男性は兄弟と思い、年長の女性は母親と思い、若い女性には常に純潔な思いで姉妹と思って諭しなさい」と書いてあります。この手紙の著者は若い女性を常に純潔な思いで見ていなかったことが暗黙のうちに明らかになっています。そうではありませんか?

最近、ある有名なプロのオーケストラ奏者が言っていました。「ベートーヴェンの交響曲第1番は決して易しい作品ではありません」。私はひそかにベートーヴェンの1番は易しいだろうと(やったことがないのでわかりませんが)思ってきました。しかし、このプレイヤーさんのおっしゃることは、暗黙のうちに「ベートーヴェンの交響曲第1番は易しい」と言っていることになると思うのですが、いかがでしょうか。

讃美歌を例にとります。あるイースターの「こどもさんびか」です。「ああ キリストは ほんとうによみがえったのだ ハレルヤ ハレルヤ アーメン」という歌詞です。この歌詞は、暗黙のうちに、キリストはほんとうはよみがえっていないことを前提としています。ほんとうにキリストがよみがえったのなら、わざわざこんなに声を張り上げて歌う必要はないからです。

「エレガントライフ」という会をやっているお年寄りの皆さんを知っています。しかし、その実態は、まったくエレガントには遠いことも知っています。実際にはエレガントではないからこそ「エレガントライフ」と呼称するのだろうと思います。

何度も聖書から例を出してすみません。私の苦手とする聖書の言葉の典型を1か所、挙げますね。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現わされました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(新約聖書ヨハネの手紙一4章9節以下)。嫌じゃないですか?なんだか恩を着せられているようです。これも、「ここに愛」などないのです。おそらく。ないからこうやって強く主張するのです。

この「ヨハネの手紙一」の少し前を見てみましょう。前のページくらいに次の言葉があります。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか」(同3章18節)。これはまさに、言葉や口先だけの人が言う言葉ではないでしょうか。どうもこの「ヨハネの手紙一」というものは、「言葉と口先だけの手紙」らしい。これは、ひねくれているつもりはなく、そのように私には感じられるのです。

昨今、「多様性」という言葉をよく聞きますね。これは、この世界に多様性というものがない証拠だとは言えないでしょうか。

このつもりで世の中を見てみると、いろいろなことが見えてきます。言えば言うほどウソなのです。「強調してあることは、ウソである可能性がある」という目で、世の中を見ていく賢さが必要だろうと思います。
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