最も年収の多くなる東大生

記事
コラム
私はかつて中高のオーケストラ部の顧問でした。以下の話は「絶対音感を持っている」とかに関係なく、オケをやっている人の間では常識的な話です。「ホルンとトロンボーンの音色はまったく違う」ということです。ただし、これは、オケに詳しくない人だと区別がつかないようです。

そのときのオーケストラ部の筆頭顧問はオケには詳しくない人でした。どこの学校でも、必ずしもバスケに詳しいわけではない人がバスケ部の顧問をしているわけではありませんでしょうから、珍しいことではないと言えるでしょうが、その筆頭顧問はホルンの音を聴いて「あのトロンボーンが~」と大きな声で話していました。私からしたら信じられないくらいの話です。「えー!ホルンとトロンボーンの音色の区別がつかないわけ?そんなことを大きな声で言っているわけ?ものすごく恥ずかしくない?」と思うわけなのですが、彼はまったく恥ずかしくなかったのです。なぜだと思われますか。

それは、「ホルンとトロンボーンの音色の区別のつく人がほかにほとんどいなかったから」です。多くの人が、ホルンとトロンボーンの音色の区別がつくなら、彼は大恥をかいたでしょう。しかし、ホルンとトロンボーンの音色の区別がつく人間が私くらいしかいないのですから(なにしろトレーナーもヴァイオリンの人であって金管楽器の音色の区別がつかないのでした。もうとてつもなくレヴェルの低い楽団であったわけです)、ホルンとトロンボーンの区別がつかなくても恥はかかないのでした。こういうのは「多数派」「少数派」で説明がつきます。わかっていない人が多数派であれば、恥はかかないわけです。

「アタック25」というクイズ番組がありました。知らないうちに放送が終わっている番組でしたが、ああいうクイズ番組に共通するものがあります。「常識と非常識の境目」をねらって出題していることです。「ああ、なんだっけ」と思わせ、解けた人は快感を得、解けなかった人も「なるほど~、そうか」と思わせるような問題が「良問」であるわけです。アタック25として良問と言えない問題を出しますね。「新約聖書に出てくるザアカイが登った木は何の木ですか」。これは、「聖書クイズ」としては「良問」です。キリスト教の世界では、ザアカイが木に登った話は有名であり、しかも「その木が何の木であったか」を覚えている人は少ないからです(正解は「いちじく桑の木」です)。しかし、一般のクイズとしては不適格なクイズであると言えましょう。「ザアカイ、誰それ」ということになるからです。以下に聖書クイズとしても不適格な例を出しましょう。「アシュケナズの父の名前はなんですか」。多くの人にとって「アシュケナズって誰だよ」ということになるでしょうし、仮にアシュケナズの父の名前がわかってもうれしくもなんともないでしょう。

さきほどのオーケストラ部の筆頭顧問は、「自慢する」「マウントをとる」のが得意でした。しかも、嫌みにならずにやるのが上手でした。こういうのも「常識と非常識の境目をねらう」のが大切です。「へえ、この先生はそんなこともご存知なのですね、そんなこともおできになるのですね、すごーい」と思わせたら「勝ち」なのです。極端にできないのがダメなのは当たり前として、「極端にできる」のもダメなのはお分かりいただけますか?

ある教会に、A牧師とB牧師の2人の牧師がいます。A牧師のほうが明らかにベテランで、説教もうまいですし、それはB牧師も認めるところです。しかし、この2人で、どちらが聖書に詳しいかと言いますと、それはB牧師なのです。このことはA牧師も認めています。つまり、牧師として成功する基準としては「ほどほどに聖書に詳しい」ことなのです。周囲の信徒よりは少しだけ聖書に詳しい程度ですね。あまりに聖書に詳しすぎるとかえって牧師は向いていません。しかし、B牧師も、「牧師をやめさせられる」ほどの極端さではありません。私は実際に数学の教師をやめさせられています。私はかなり極端に数学ができたことになります。周囲の理解がまるで追いつかなかったのです。

「トリビアの泉」という番組が流行ったことがあります。若いかたはご存知ないでしょうね。タモリが出てくる番組で「へえ!」と思わせるような豆知識の出てくる番組でした。「チコちゃん」は少し近いかもしれません(私は「チコちゃん」をよく知りませんが)。その番組で紹介されていたトリビアで「ドヴォルザークの『新世界交響曲』のシンバルは、あの長い曲で1発しか出番がない。にもかかわらず、ずっと弾いているヴァイオリンとギャラが同じ」というものがあります。これはある人から教わったのですが、多くの人が「へえ!」と思う水準はこれなのですね。私はすぐに「新世界のシンバルは確かに1発ですけど、その人はトライアングルも掛け持ちし、それなりに出番があるはずですけど」と申し上げました。さらに「ヴァイオリンとギャラが同じ」というのはもっとあやしいです。私はプロのオケのギャラについては何も知りませんが、年功序列である可能性もあり、コンサートマスターは高いかもしれず、同じ仕事をしていても非正規雇用のエキストラはおそらく安いでしょう。こう見てくると、「トリビアの泉」も、かなり話を盛っていたことがわかりますが、たまたま自分が詳しい分野でこれだけの「詐欺」があることを考えると、かなりあの番組はあやしかったでしょう。(「ブルックナーの交響曲第7番のシンバルは1発」というのは「正しい」トリビアになりますが、おそらくこれでは番組は成立しないのでしょう。)

多くの人は「東大」と「東大数理」の区別はつかないようです。「どちらも東大である。賢い」と思われるようです。しかし、東大数理(東京大学大学院数理科学研究科)は、並の東大生でもびっくりするくらいの大学院なのです。こういったものは、東大生(東大卒)のほうが高く評価してくれます。やはり「極端にできる」というのはあまり評価されません。(そうしてこれは自慢に聞こえるのでしょうね。やはり私は「へた」です。)

私の東大の同輩の多くは、いま、高い収入、高い地位について、もはや私とは別次元の世界を生きています。「最近まで仙台に単身赴任していました」「ここ2年くらい東海道新幹線に乗っていません」などなど。私は単身赴任するような大企業にはとても勤めていませんし、新幹線などとても高くて乗れません!でも、じつは彼らより私のほうがずっと賢いのです。東大オケの時代のつぎのようなエピソードを紹介します。私はヴェルディの「ナブッコ」序曲という曲に取り組んでいました。やっていて思ったのは「ヴェルディの(イタリアの人の)リズム感は、われわれ日本の人間と根本から異なるのではないか」ということでした。これを周囲の東大生に言うと、反論されました。同じころ、東大オケはショスタコーヴィチの交響曲第9番という曲にも取り組んでいました。ショスタコーヴィチは強拍を小節線に持ってきます。リズムがあわなくなると変拍子にします。これをもって私の論に反対してきました。確かに彼らは東大生です。「ショスタコーヴィチの変拍子」を出してくるところなど、なかなか高度な議論をしているかのようです。しかし、私の考えでは、ロシアの(旧ソ連の)作曲家であったショスタコーヴィチのほうがわれわれ日本の人間とリズム感が共通しており、ヴェルディは根本から違うのではないかと思った、ということなのです。つまり、私は東大でも馬鹿にされていました。それは私が東大においても突拍子もなく賢かったことを意味するのです。

さきほどの皆さんは、大学教授になっていたり、大手企業のエンジニアになっていたりします。月収が100万を超えている人もいるでしょう。だいたいそういう「リーズナブル」(という言葉はこういうときに使わないでしょうが)な賢さの東大生が、年収が高くなるのです。「トリビアの泉」と同じであり、「周囲の人が『なるほどこの人は賢いなあ』と思わせるくらいの、ちょうどよい賢さ」の人間が高く評価されるのです。私がこの小文で、音楽や宗教など、極端な例しか挙げられないのも、私の知識の極端なかたよりを表しています。「ある群を基本群として持ち、かつ不変被覆が可縮である位相空間が、ホモトピー同値を除いて一意に定まる。その空間をその群のアイレンベルク=マクレーン空間と呼び、その空間のコホモロジーを群のコホモロジー、ホモロジーを群のホモロジーという」ということを知っていて、大学院以外でなにか価値のあったことはありません。私には「常識」というものがありませんので「常識と非常識の境目をねらう」というのは極めて困難なのです。

でも、ようやく世の中の知的水準がわかってきました。皆さん、どうやら私よりはるかに賢くないのです。(反感を買うような表現でごめんなさいね。でも私はとにかく「鼻につかないようにじょうずに自慢する」ということが徹底的に苦手ですので…。)私が馬鹿に見える、あるいは、私が馬鹿にされ続ける理由がまさに「私が突拍子もなく賢いから」だとわかってきました。最も年収が多くなるのは「ほどほどに賢い東大生」であったのです。賢ければ賢いほど稼げるわけではないのですよ。「多くの人に賢さがわかってもらえる」というのが「ほどほど」なのです。難しすぎるクイズは良問とは言えないのと同様です。

私が「とてつもなく賢い人間」であるかまたは「とてつもなく馬鹿な人間」であるかのどちらかであることはお分かりになったと思います。私はピンでありキリであります。本日はここまでです!
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す