「神はいるか」

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「神はいませんよ」。私が中高の教員だったころ、よく生徒から言われた言葉です。断言調で言われました。私はいつもとっさに何も言えませんでしたが、「確かに神がいるという証拠はないけれども、神がいないという証拠もないけどね」と思っていました。

聖書を読んでいると、そこに出て来る古代の人は、ものの考え方にせよ、人間模様にせよ、現代の人と何も変わりません。読めば読むほど古代人と現代人は変わらないのです。でも何かが違う。では何が違うかとよく考えてみますと、「古代では神の存在を信じる人が圧倒的多数であり、神がいることは『常識』だった」という点に気づかされます。「あなたは神を信じますか?」という問いは聖書には出ません。新幹線に乗ろうとしている現代の人に「その新幹線、脱線するかもしれませんよ」と言うと「そうかもしれませんなあ、はっはっは(でもさすがに脱線はしないだろうけどね)」と言われます。聖書の時代にタイプスリップして「神はいないかもしれませんよ」と言うとおそらく「そうかもしれませんなあ、神様に会ったことはありませんからなあ、はっはっは(でもいるに決まっているでしょう)」と言われるでしょう。イエスの語った「やもめと裁判官」のたとえ(新約聖書ルカによる福音書18章1節以下)に出て来る「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」についても、「神を信じず」とは書いてなく「神を畏れず」と書いてあります。神はいることが大前提なのです。

現代の人でも、たまに流れ星を見ると、あわてて願い事を言おうとします。流れ星に願い事を言うとかなうと思っているのです。あるいは、「このネクタイをしていくと上司に叱られる確率が高い」と思っていたりします(それは私ですが)。あるときある牧師さんが言っていました。「来週の祈祷会はありません。私が海外出張だからです。よっぽどのことがあったら日本にいますが、その場合はよっぽどのことがあるのでやはり祈祷会はありません。あまり言っていると本当に起きるので…ムニャムニャ」。これはおそらく教会員さんが亡くなってお葬式がある場合を言っているのでしょうが、この牧師さんは「あまり言っていると本当に起きる」ということを無自覚的に信じているのです。「あまり言っていると本当に起きる」なんて聖書のどこにも書いてないのに!「宇宙はビッグバンで始まった」という話さえ、原論文まで読んできちんと納得している人は極めて少ないはずです。ほとんどの人はテレビの言っていることを「信じて」いるだけです。

このように皆さん無自覚的にでもいろいろなものを信じておられます。果たして「目が見えない人が見えるようになった?水がぶどう酒になった?5個のパンで5000人がおなかいっぱいになった?そんなのは迷信でしょう」と言えるでしょうか。「神はいる」と信じていてもいいではないですか!
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