「あなたのため」という言葉

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「私たちも叔父さんも、いつもあなたのことを思っています。そのためにどのようにしたらよいかを常に考えています。何とか良い方向に行ってほしいと思っています」。私の両親からのメールの最後に、よく書かれてある言葉です。このように、「愛情深い言葉」をメールに書いてくるのは、両親だけです。これに対して、私の多くの友人は、たとえば以下のようにメールを書きます。

Zoomはいままで、1対1でやっているぶんには無料でした。しかし、おととい(2022年5月2日)から、Zoomは、1対1であっても、40分以上は有料になりました。Zoomで1対1の事業(算数・数学の個人指導)を考えていた私は、方向転換を迫られています。Wherebyという会議ツールを教えてくれた友人もあります。またある失業者つながりの友人は、「事業が軌道に乗って収入も増えると経費として申告することで節税になるかもしれないけど、まだ始めたところだとどこまで経費をかけていいかわからないですよね」とお書きになりました。携帯のプラン変更や、保険の見直しなどをしたら支出がかなり抑えられたという話も書いてくれました。そこには「あなたのためを思って」という言葉はいっさい書いてありませんでしたが、胸が熱くなるほど、親切心に満ちたメールでした。

また、きのうは、私にココナラの使いかたを教えてくれたかたが、私の「鼻歌に伴奏をつけます」というサービスを買ってくださいました。そのかたは、500円クーポンが手に入ると、私のサービスを500円で買ってくれるのです。私の実績を少しでも増やすために、私に依頼をしてくださるのです。極めてありがたいです。この人も、「あなたのため」という言葉はいっさい使いませんが、とても親切です。

以下はある牧師さんの意見ですが、私も大いに賛成の話です。イエス・キリストは、言葉で「愛」を強調するタイプというより、行動で「愛」を示すタイプの人であったという話です。たとえば、盲人が道ばたで物乞いをしています(これは新約聖書マルコによる福音書10章46節以下に出る話です)。イエスが通ったと聞いて、盲人は叫びます。いくら叱られても盲人は叫び続けました。イエスは「あの男を呼んで来なさい」と言います。盲人は躍り上がってイエスのところに来ました。イエスは「何をしてほしいのか」と言います。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言います。イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言います。盲人はすぐ見えるようになり、イエスに従って行きました…という話で、この話にいっさい「愛」という言葉は出ません。パウロは「愛は忍耐強い。愛は情け深い」(新約聖書コリントの信徒への手紙一13章4節)と書き、またヨハネは「神は愛です」(新約聖書ヨハネの手紙一4章16節)と書きました。確かにイエスも「神を愛しなさい。隣人を愛しなさい」と言い、また「互いに愛し合いなさい」と言いました(新約聖書マタイによる福音書22章37節以下、またヨハネによる福音書15章17節)。しかし、基本的にイエスは、「愛」という言葉を強調するより、行動で「愛」を示すタイプの人だったのです。「きみ、目が見えないんだね。大変だったね。でも、ぼくが来たからもう大丈夫だよ。見えるようになれ。それ!」と言うようなキャラではなかったということです。聖書で「愛」を強調するのは、おもに弟子なのです。

安冨歩(やすとみ・あゆみ)さんの講演録で読んだ話です。記憶に頼って書くことをおゆるしください。ハラスメントというものについて最初に触れた文献の原題は『あなたのため』と言うそうです。「あなたのため」という言葉は、究極のハラスメントかもしれませんね。
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