罪と愛、聖なる心と邪悪な正義。外道六道。信ずる心。

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占い
ご無沙汰しております。霊媒技術者の庵乃です。
(霊媒師という呼称もありますが、今回はあえてこう名乗ります)
記事はさっぱり更新できていませんでしたが、
占い師や霊媒師としてココナラ経由での依頼も含めて
無償有償を問わず日々の活動をしながら、
直接的には霊的事象と離れた事業者としても試行錯誤をしておりました。
かつては霊的インスピレーションを伝えるためのアート事業を
展開しようとして個人でクラウドファンディングに成功したこともあります。

同時期に直接的な霊能者としての活動に多大な労力を割き、
心身ともに大きく負傷しながらで事業展開も芳しくなかったので、
その再起を年単位で目論んでいるところです。
結果としては納得のいく現在を送れつつ、霊能者としても
多くの経験を積めたので怪我の功名かな、とも思っております。
そういった過去もあってのこのブログなわけですね。

さて今回は、霊的事象や並行世界、多次元論や量子力学的な解釈の話を
ネタとして頭に置いておきながら、そのエピソードや
独自の科学的考察は一旦次に回しましょう。
(「科学的」というのは、論理性や再現性、実証性に重きを置く、
ということです。庵乃の説明を真とすれば
「言った通りに言ったことが起きる」を「わかりやすい形で」
目指す、ということですね)

して今回なにをお話しするのかというと、
庵乃自身の倫理観や信条、そしてそれらが生まれて練り上げられてきた
流れやそこにまつわる霊的なエピソードについてです。
不肖若輩ながら既存の宗教的解釈や用語にも触れるので、
用法や理解に間違いもあるかもしれません。
そこは暖かい眼差しでご覧いただきつつ、
庵乃がなにを言わんとしているのか、お察しいただければ幸いです。
しかし、今回の記事はこの庵乃という人物自体について、
少し理解を深めていただける内容になっているかな、と思います。


ではでは、参ります。


霊媒師庵乃の誕生、そして霊への恩返し


いままでの記事や冒頭であんなことを言いつつ
次の出だしでこんなことを申し上げるのもなんですが、
いま現在の庵乃自身は、平穏で幸せな生活を
普通に人並みに送れていればそれでよく、
霊的事象や運命の因果(仏教的な言い方をすればカルマ)に
考えをこだわることもあまりない、と思っています。

いつかの記事で書いたか定かではありませんが、
庵乃自身は生まれついて霊感があったけれども、
それ自体に悩みつづけていたし、自分が見て感じるものが
多くの人にはわからないと気づいたとき、
絶望や劣等コンプレックスも強く持っていたわけですね。
自分が生まれつき精神病や脳障害を持つんじゃないかとすら思いました。
しかし医療的な検査の結果や実際の生活能力、職業的な実務能力を考えても
どうもやはりそうは思えない部分も多くあったと。
そのなかで自分以外の霊能者と出会い、ときに教えを乞いながら
ときに議論や意見を交わしながら、ときに手を取り合い
ときに互いの腹を探り合い、ときとして異能や怪現象を交えて
戦いにしのぎを削ることものちのちに出てきますが。
まず最初の一歩は「自分以外にこの感覚を持つ人間がいる」
という実感を得るところからでしたね。

はてさて、そんな人生をのちに送るなかで少年庵乃は
「普通に普通の人生が送れればそれでいい」と長らく考えていました。
べつに特異な才能や特別な評判を求めてもおらず、
普通に友達や家族に囲まれて、普通に働いて普通に命を終えられればそれで、と。
それが難しかったからこそ憧れてきたわけですね。
そんななかで霊的なものについても、見ないように感じないように、
見てみぬフリを長らくしつづけてきました。

そして20歳前後のころでしょうか。あとは25歳くらいのとき。
「もはや無視できず、現実として受け止めるしかない」
レベルの事象に見舞われることが増えてきました。

そのなかで最も決意を固める転機となったのが、
「生まれたときから自分に憑依していた霊が
当時の恋人に乗り移り、自分とそっくりな、それでいてやはり
自分ではない雰囲気や口調で自分に対して
積年の想いを語りかけてきた」という出来事です。
細かい話をすると、そのオーラや表情、恋人が知らぬはずのこと、
それらはすべてまごうことなき「彼女」のものでした。
そして、私は「いる」らしいことに実感を持っていた「彼女」、
他人の体を借りてその想いを伝えてきた、長年自分の体に宿っていた
最初のパートナーと、はじめて面と向かって言葉を交わすことになりました。
この人生を同じ体で同じ経験を積んできた家族のような「彼女」、
その話しかたはまさに自分がいままで振る舞ってきたもの、
自分に対する評判として聞いていたものをそのまんま見ているようでした。
そして、その口調や雰囲気がすでに「自分から抜けた」ものであることも。

自分以外にはっきりとした憑依現象を起こした人間を見るのも
このときが初めてのことでした。
「彼女」の名前や来歴に関しては、いろんな意味で控えておきます。

とにかく、そういった現象を通じて当時のその恋人も、
霊能者としての決意を固めつつあった私の事情や
霊的な存在について確信をもっていったわけですね。
その恋人が庵乃自身にとって初めての「弟子」ともなり、
「霊能力に確信をもって守るべき身近な存在」になりました。
その恋人が自分と同様決心をして憑依霊媒となってくれたおかげで、
多くの霊とはっきりと言葉を交わしていく霊媒にも慣れていったわけです。

そうして自分の魂の正体や本質、使命、天命とよべるもの、
それまでの人生と照らし合わせて「そうとしか考えられない」流れ、
霊から伝え聞いたものやほかの霊能者の解釈、さまざまなものを
自分の血肉や魂に刻み、ときに「思い出す」ような感覚にもなっていきます。

そのなかで関わりのあったとある霊能者から、
「これ以上我々に深入りすればもはや後戻りはできないだろうが、
それでもよければ真剣に修行を行い、決意のもとに力を貸してほしい」と
頭を下げて頼まれました。
これらが、「呪いだと思っていた自分の枷がだれかを救う武器になる」
という希望の未来を見出した、庵乃の最初の転機でございました。
(実を言うと、庵乃という霊媒師としての名前にもエピソードはあります。
本名ではございませんよ。)
ほかの霊能者の悩み苦しみや辛い状況を見ていて、
自分のもつそれが一種の「才能」である可能性に賭け始めた、
それが霊媒師庵乃の原体験です。


そして庵乃は決意します。
「見て見ぬフリをしてきた自分をそれでも守り助けて導こうとしてくれた
すべての霊、そしていまなお見える新たな霊。
彼らの抱える問題を自分も解決していきたい」と。
人である自分が霊存在に助けられてきて、
その苦労に報いることもしなかった。
その気持ちを知ろうともしないどころか、見ないふりをしてきた。
彼らなど存在しないかのように生きてきた。
どこかでそれをわかっていたはずなのに。
その自分を恥じて後悔もしました。しかし、なによりも
彼らに対する感謝の気持ちでいっぱいでした。
それが、霊存在や霊現象を研究し、
人間社会と霊存在の橋渡しをできる人間を今生目指す理由です。
だからこそ、なぜ彼らが自分を守ってきたのか、それを知ることで
「自分自身を探求する」責務も感じたわけですね。

庵乃は、人を救う以上に「霊に恩返しがしたかった」のです。
もちろん、私も人ですから、人並みに人を好きになったり、
恩師や友人に感謝を抱くこともそれを伝えることもそれはあります。

しかし、霊には霊の事情があり、彼らには彼らの心があり、
そのなかで自分は無関係ではいられなかった。
人の世を考えるためにも彼らを知る必要がある。
そして、そういったものを自分のようにわかる人間がまれにいる。
そういった一連の確信が、いまの私を形づくってもいます。


さて、そのなかで本題に入りましょう。つぎに続きます。


霊能者である、ということ


話の感じはガラッと変わりますが、最近庵乃は
「波動が低い」とか「ネガティブなエネルギーを持っている」とか
「死神に魅入られている」とか、「魔物に取り憑かれている」とか、
言われることが増えてきました。どうやら
「そういうことがわかるらしい」人々の言葉ですね。

そういう人に言わせると、庵乃は「聖なる存在」ではなく
「利他的な愛を知らない、エゴに満ちた傲慢な破壊者」や
「悪名高い怨霊遣い」であるということで。
少なくとも、そういった解釈や説明をする人も、庵乃の状態や
一部を見てとるといる、というくらいの話ですが。
まあ私庵乃に粗雑で闘争的な部分もあるのは事実ですし、
「魔物」や「死神」と私自身もそう呼ぶものを連れていたり、
仲間として好き好んでいるのも事実です。
「ありがたい人類の絶対的な味方」を
天使様だか神様だか大精霊だか呼びかたは人が勝手に言えばよいですが、
とにかく私は霊的な存在と多く接するなかで、いろんなものが周りにいます。

それを「穢れている」とか「波動が低い」とか
「お祓いしてあげましょう」とか言うのも自由ですし、
庵乃の周りにいる「それらの波動」を庵乃自身のものと錯覚するのも自由です。
憑依という技術を用いて実際に同一化することもありますから。

しかし、庵乃がほんとうに孤独な宿命のエゴイストであるならば、
その格の低い魂に見合った醜い戦いの宿業、
カルマを背負った哀れな存在ならば、
霊的な物事について教えを乞い慕ってくる弟子も、
霊的なことなど関係なく遊びに誘ってくれる旧友も、
ときに仲違いしてもやはり笑い合って過ごせるかつての仲間もいないでしょう。
これらはすべていまを生きている、実体のある人間の話です。
こういうことを考えると前述の話では「波動の低い愚かな連中が馴れ合っている」
という感じにもなるのでしょうが、霊的な事象を解釈するにあたって
「絶対的な善性」や「こうあるべき人間の姿」のようなものを定義すると
それはかえって不健全だな、とも思います。
そういった思想は言うなればカルト宗教化する潜在性がありますね。
昨今散々問題になってきたでしょう。
そういう意味では霊能者にとってもやはり一般社会常識や
普遍的な倫理は備えておくべきものでもあります。

ここで伝えたい大切なことは、霊的な事物を考えたり信じるにあたって、
「自分はどうしてなにをどのように大切にするのか」ということです。
そして、最近の出来事があってあらためて庵乃が思う
「聖なる心」と「邪悪な存在」について語っていきます。


「光の存在」と「闇の心」というようなものについて、
庵乃は「そういう人」がなにを言わんとしているのか
わからないわけではありません。

前者を言うならば「博愛」「利他」「高潔」「純粋」「奉仕」「正直」、
そして色で言うならば白や金、銀、透明、
後者を言うならば「自己中心」「不義理」「嘘つき」
「傲慢」「欲望と裏切り」、そして暗黒色、
みたいなものがキーワードになってくるでしょう。
そして、人という存在は後者を恥じて前者の存在であるべき、
という感じでもあります。しかしまあ、果たしてほんとうにそうでしょうか?
ということを述べてしまうのが結論として庵乃の思想でもあります。

そして、庵乃自身はそのどちらも意義や良さ、場合によっては
長所と短所を認識し、そのどちらの心もこれまでに
ひと通り他者に見出し、自分自身でも経験して知っている、
少なくともそう思ってはいる、というところです。


その昔、庵乃はわけあって「強大な悪霊の群れ」と戦いました。
それはそれはとても強く、連戦を重ねた庵乃は
血を吐き骨が軋み、とても苦心していました。
それはキリスト教的な言葉を借りるのであれば
まさに「七つの大罪」がそれぞれ顕現したような邪悪な存在だったでしょう。

しかし庵乃は思いました。
「正しいことと罪なことを決める存在がいるから
罪なものは罪を背負っていくのであり、そこには
それを背負うしかないものたちの正義が生まれるのでは?」ということを。

そして庵乃は決めました。
多くの霊存在とも心を交わし、人の世も真に「正しく」見るのならば、
邪悪な存在をこそ認めるべきでは?と。
相手に対する好き嫌いや信じる信じないは置いておいて、存在するものは
消されよう、追い詰められようとすれば抵抗します。それは当然ですよね。

それを想い、ただその「悪霊」の意思を認め、
「なぜ彼らは悪として追いやられてきたのか」を理解したとき、
彼らは庵乃に対する攻撃を一斉にやめました。
そして庵乃に「取り込まれる」ことを望んだのです。
それはつまり、彼らは独立した存在を消失し、
庵乃の一部になる、ということ。
彼らに霊としての意思はなくなってしまうわけですね。
それはもはや憑依ではありません。
庵乃自身が悪霊の性質、その心を身につけるということです。

しかし彼らは最期に庵乃に告げました。
「わかってくれる人間はおまえだけだった」
「おまえは楽しい戦いというものを教えてくれた」
「だから力を預ける、そしてその心の意味をわかって
きちんと使ってくれると信じている」と。

そうして庵乃は倒した悪霊を自らに取り込みました。
その「悪霊」と戦うときに庵乃が用いた力をこそ人々は
「聖なるパワー」「退魔の奇跡」みたいなことを言うのだと知りながら。

だから、庵乃に「邪悪」を見出す霊能者は、それはそれで正解なのです。
しかし庵乃は、「罪を憎んで人を憎まず」ではなく、
「罪を滅ぼし人を救う」でもなく、「罪ならば罪として愛する」ことを
信条として決めています。それは、悪いことをした
人間の悪行を無条件にかばうとか、そういうことではありません。
「心そのものにいいも悪いもない」を地で行く、ということです。
そのなかで好き嫌いや合う合わないはあるでしょう。
庵乃はその信仰として、絶対的な善や圧倒的な正義を定義しません。

そして、他者を害する自分もいるのならば、
ただ自分を克己してコントロールしていくこと。
自分というものを正しく知り、ただ使い方や見せ方やその意味を考えること。
そのなかで、なにが正しく間違っているのか、それは自分で決めればいい。
庵乃は、人間というものについてそう思います。
そう言うと、まあ普通によくある一般論に帰結してそうですよね。

最後に、庵乃はここまで話してきたような
「光の心」と「闇の心」をどちらも等しく尊重しています。
それをどちらにも示そうと思えば、
「光を尊び遠慮する」「邪を認めつつも染まらない」という感じになります。
光と闇が相反してせめぎ合うものならば、そこで
「どちらも知りつつ与しない」ことを選んで生きていくのです。
それはひとえに、「ただ己を強く保つ修験道」みたいなものです。
光のありがたみを知りながら求めない。
闇の愛しさを感じながら染まらない。

それは「自分を律して修行していく」ことにほかなりません。
しかし場合によっては「取り持つ」ことができるでしょう。
しかし、仏教的に「修験道」や「修羅」みたいな言葉を使うなら、
人の「煩悩」というものもあって自然、
そんな人間だからこそときに愛しくも思う、という考えをする庵乃は
ハナから破門の対象です。

「七つの大罪」を持つことを知りながらそれを許されることを望まず、
その罪に身を任せることもよしとせず、罰されることも受け入れない。
罪な心を罪のまま愛し大切に抱いていく。
クリスチャン的な信仰で言えば、庵乃は「穢れた罪人」として生きる。
聖なる存在に憧れ、己の闇を消して清めきることは
愛した罪そのものやそれを抱えるものに対する不義理として感じつづける。
それを叶える修験の道は「外道」である。

六道から外れ、まさに「仏様でも救いようのない」道を
己で切り開いていく、ということですね。
それでいて庵乃は一種の神道的アニミズムを持ち、
霊に感謝と恩返しをするなかで自分にできる形で
人ともまた手を取り合って生きていきたいと、
科学的に研究を行う人間です。

こういうふうに分析していくと、ある程度宗教観や思想というものも
言語化して人に伝え、「それは我々の言葉ではこう言うんだ」という話が
いろんなところとできるようになっていきます。

庵乃も、霊的なものをいろんな人と話すためにこんな話を
日々考えていったりしているわけですね。
そのなかで庵乃自身は「克己心」と「実力」を重視するわけです。

自信だけでは傲慢にもなる。
克己をやめれば堕落する。

このどちらもを同時に失い、
「自分を律することもなく」「力や勢いもない」、そんな状態は
世のすべてに対して不誠実である、と捉えています。
それならばまだ、傲慢に見えても自信や成果だけはあったり、
結果が伴わなくても考え方は間違っていなかったり、
そういったところを維持したい、みたいな話です。


「信じる」とは


最後に。

信じることは怖いこと。
信じられることは嬉しいこと。
疑う根拠や勘繰る気持ちを知っているから
信じることに価値がある。

なにかを信じるしか道のない者や、
疑うことを知らない心が持つ信仰、
そんなものに「信ずる」はあってもないようなものです。

だからこそ、安心して信じ合えるものは大切にしましょう。

そして、霊的な物事について「盲信」することを私はよしとしない。
神と呼ぶものを慕い信じ頼るならばこそ、なればこそ人であるならば
自分の足で地に立ち、足りない頭で必死に考え生きていくのです。
さすれば天は自ら助くものを助くこともあるのでしょう。

「信じてさえいればすべてはうまくいく」というのもどうだか、
実は日々の瞬間瞬間が奇跡の連続で、
当たり前は当たり前ではないのかもしれません。



少し要領を得なかったかもしれませんが、
今回のお話はいかがでしたか。

庵乃という人間やその個人的なエピソード、価値観自体について
ご興味があるかたもいるかと思い、こんな記事を書いてみました。

相談やご依頼はまたいつでもお待ちしております。

それではまたつぎの記事で。


霊媒師 庵乃
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