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経歴

経歴

  • 毒親の元で育つ 1970年12月 1990年3月

    特に母親からの虐待が深刻でした・・・。 物心ついて最初の記憶は、柱に縛り付けられて号泣している自分でした。 母は女の子が欲しかったらしく、わたしに無理やり女子服を着せていたそうです。 思い通りにいかないとすぐにキレ、口答えを一切許してもらえなかったので、 いつしか母の顔色を伺い、本音を言う事を一切しなくなりました・・・。 テストでたとえ90点取ったとしても、「なぜ100点でないのか?」と詰り、 生活費を補うためにアルバイトをしても、「なぜこんなに少ないのか?」と詰る、 そんな母親の下で育ち、生きる希望が見えない子供時代でした。

  • エホバの証人の信者になる 1983年6月 2004年6月

    家庭では居場所がなかったわたしは、近所の老夫婦の誘いで「聖書の勉強」をするようになりました。 わたしにとって暖かいコミュニティに感じたエホバの証人に染まってしまいました。 組織の勧めで大学進学をせずにアルバイトのみの収入で布教活動(開拓奉仕)に専念しました。 エホバの証人の組織内では当時はすでに珍しい模範的な一世だったので、 抜擢されることが多く、20代前半のわたしは天狗になっていました。 そして、エホバの証人の家庭で育った「2世」がよもや「懲らしめの鞭」という虐待を受けている事もつゆ知らず、呑気に「二世はうらやましい」と思っていました。わたしの黒歴史です。

  • 大工になる / 安全衛生責任者 1993年11月 2003年11月

    当時、エホバの証人の信者の増加が著しかったので「王国会館」と呼ばれる集会場を自前で建てる組織「地区建設委員会(RBC)」が各地にでき、建設奉仕者と呼ばれる無給で建設作業に携わる信者が必要とされていました。 北陸地方は信者数が少ないので、建設奉仕者の負担は大きく、残業残業の現場を目の当たりにして、技術者として貢献したいと願うようになり、知人のつてでツーバイフォー工法の工務店に弟子入りをしました。 毎月2週間は建設奉仕、残り2週間で仕事を行うようになり、地元の伝道はもちろん、集会にすら顔を出さない日が増え、会衆(集会に集うコミュニティ)の「兄弟姉妹たち」からは「信仰のすくない兄弟」と見下されるようになりました。 その経験があって初めて、目が覚めました。 家庭の事情で集会をやすみがちな信者、開拓奉仕を出来ない信者の肩身の狭い思いを理解できるようになりました。 この頃組織内ではお荷物扱いをされるようになりましたが、人間的には成長できた時期でした。 敬遠されていた2世たちになぜか慕われるようになったのもこの頃です。 しかし、組織内の不完全さは改善できる、統治体(世界本部にいる最高指導者の一団)をまだ信じていました。

  • うつ病になって引きこもり生活が始まる 2003年1月 2005年3月

    やがて信者でない両親を養うこととなり、フルタイムで働いても後ろ指を指されなくなるようになりました。 大工としても現場を任されるようになり、大東建託(株)のアパートの建設を請負で数人の「兄弟」と共に建てるようになりました。請負できるようになったので、夜に残業をして土日に伝道する「開拓奉仕」に戻りました。 ところが長くは続かず、事業の行き詰まり、婚約破棄、問題行動を起こしてばかりの両親によってうつ病を発症し、一度は仕事に復帰したものの、やがて行けなくなりました。 自己破産を考えているときに自殺を真剣に考えました。 エホバの証人は自殺を禁じているので、「どうやったら事故死に見せかけられるか?」一晩悩んだ夜もあります。 この頃、まる三日眠れないことも多々ありました・・・。 まだまだうつ病への理解が薄かったのでリアルの人間関係は持てずに引きこもりの生活が始まりました。 ただ、当時普及し始めたネットによって新たな人脈ができました。

  • エホバの証人を辞めて神戸へ 2004年6月 2007年3月

    新潟市で社会復帰を図るべく様々な施設やNPOを巡りましたが、絶望しました。 障害者雇用促進法が出来る前、一度うつ病になってブランクが出来ると、再就職はアルバイトすら困難でした。 通えた作業所で得られる工賃は月に数千円しかない、という現実に、バーのマスターをしている市会議員に相談した夜もありました。 「精神障碍者が社会復帰できる仕組みがないなら、自分で作れ」というアドバイスを受けたことを覚えています。 その頃知り合った人たちは、ネットを介した人ばかりです。 自傷をやめられない子、人格が複数ある子、そしてエホバの証人2世で組織を離れた人たちでした。 そこで、友達のありのままを受け止めてあげることが感謝された経験が今のカウンセラーのきっかけです。 元エホバの証人の仲間から、「懲らしめの鞭」の残酷さ、元統治体成員の著作「良心の危機」の存在を知り、それまで何があっても頑なだったわたしの信仰が一瞬で崩れ去りました。 そんな中、有償のボランティアを行っていた神戸に行ってみることにしました。

  • 神戸での社会復帰と失敗 1995年3月 2014年11月

    阪神大震災の被災者向けのボランティアNPOが震災後に地域で有償ボランティアを続けていたところに 体験でボランティアをさせてもらいました。 そのうち、その敷地で事務所を構える白玉粉屋さんの営業所で働く機会を得ました。 事務のみだった1年は順調でした。 しかし、翌年から志願して営業を行うようになり、上司と顧客とのはざまでストレスを抱えるようになり、 やがて過呼吸の再発を機に休職を余儀なくされました・・・。 以後、長い長い引きこもり生活が続きます。 この時もまる三日眠れなかったり、逆に1日14時間も睡眠している時期も経験しました。 この時期、眠れる工夫や腸を暖める工夫やアロマテラピーなど自分なりのリラクゼーションを編み出しました。

  • 生きる目的を再発見し二度目の社会復帰 2014年12月 2017年8月

    エホバの証人として生きるという目的を喪ってから、精神的な支柱を見いだすまで時間を要しました。 やがて、日本人としてのアイデンティティを再発見することがわたしには役立ちました。 最初の社会復帰は、ある候補者の選挙応援でした。 応援期間中に他のボランティアの方から「あなた、もう社会復帰できるんじゃない?」と言われたことをきっかけにして、B型作業所に通い始めました。 そこでも統合失調症や他の精神障碍者の方と友達になり、1年ほどで障碍者雇用で事務のパートに就くことが出来ました。 ところが、二度にわたるパワハラを経験し、一度休職し、二度目に退職し、労災申請も行いました。 これらの経験は精神障碍者が社会復帰したり、休職からの復職や、ハラスメントに遭った時の対応として経験値を与えてくれました。

  • 放送大学で心理学を学ぶ / 教養学部心理と教育コース 2017年10月 2022年3月

    30代の頃、カウンセラーになりたい、と思い始めた時に 臨床心理士を目指すべく放送大学への入学を検討していましたが、大学院まで行かなければならないので、そのハードルの高さに諦めていました。 しかし、人工透析をしなければならなくなったのをきっかけに、自らの寿命を意識するようになり、悔いのない人生を送りたいという気持ちから入学を決心しました。 また、大学院に備えて「選科履修生」として大学院で履修する教科の単位も取得しました。 途中、国家公務員の障碍者枠採用の受験のために上京し、再度ツーバイフォー工法の大工として働きながらようやく卒業を迎えました。 また、大学の知識だけではカウンセリングのスキルは身に付かないだろうと思い、自衛隊でのカウンセリングで培ったスキルを教えてくれるNPOで自殺と惨事のカウンセリングの訓練を受けました。 2020年に新型コロナに伴う緊急事態宣言によって心が病む人が増えるだろうと思い、カウンセラーに転職する時期を早めることにしました。 臨床心理士よりも早く資格が取れる産業カウンセラーの養成講座を受講しここでもカウンセリングの技術を磨くことが出来ました。