経歴

職歴

  • Live Familiar 2021年9月 現在

    ・お客様の問題を解決していくこと。 / 個人事業主 2021年9月 現在

    料理、カウンセリングを通して、関りあるご家庭やお客様の抱える問題を解決すると共に、技術の追求を通してお客様に幸せを提供しています。

  • 児童指導、ケアワーカー 2018年8月 2021年9月

    ・児童施設 / 児童指導員 / その他 2018年8月 2021年9月

  • 国内外のレストラン、ホテルでの業務 調理師、飲食業 2000年4月 2018年7月

    ・ホテル、レストランでの調理業務 / 調理師、シェフ、スーパーバイザー / シェフ・パティシエ 2000年4月 2018年7月

    詳細 英語のサービスを出しているので、ここには、海外のレストランでの話を書いていきます。 なので、カウンセリングを受ける事を考えられている方向けに記載するものではないんです。 僕は、失敗だらけですので、学校の事などをお読みいただけますと幸いです。 僕が、現地の人達と一緒に働き始めたのは、オーストラリアに留学をした時でした。 ※留学の話は、留学の項目に記載しているので、気になりましたら、そちらを見て下さいね。 学生ビザなので、当時は、週に20時間しか働けない条件がありました。現在は、分からないのですが。 そんな中、オーストラリア料理のお店で働く事ができるようになりました。 ここで、働くアジア人は、僕だけで、他は、現地の人とヨーロッパの人達でした。イギリス圏の人その中にいました。 なので、英語を話しまくれるチャンスだったんです。 当時は、料理の技術を学ぶよりも、英語力をとにかく伸ばしたいので、取り敢えず覚えた単語を話して学ぶ事をしていました。 生活の場所がニュージーランドに移ってからも試験が終わるまでは、勉強を続けながら働いていましました。 ここでは、スペイン料理のお店でした。 料理長もスペインで働いてきたヨーロッパの人です。 オーナーからは、英語力を褒められていましたが、最初、何処かのアジアから来た奴位にしか思われていませんでした。 そこで、コミュニケーションや実績のために話しに参加したり、話をしていました。 これがとても貴重な経験でした。 まず、気が付いたのは、日本人が考えない事を考えて話している事でした。 例えば、公園の端から端まで歩くのに何分かかるから、公園の広さがどれくらいかを、ずっと話していたりしました。 他には、自分が感じる事、考える事を細かく言語化していることにも気付きました。 人それぞれ、話題も様々です。 そこで、自分も知識からではなく、自分の感じた事や当たり前のような事を細かく色々と話すようにしました。 なので、英語力というよりも、思考パターンを変えていく作業がありました。 それもあったのか、少しずつ認められながら、働いていくことができました。 それが英語をより深く理解していくことに繋がったと思います。

  • NPO法人 フードバンク 2008年1月 2009年1月

    ・フードバンク / NPO法人の新規立ち上げ / 営業事務・アシスタント・取締役・執行役員・事業企画・事業開発 2008年1月 2009年1月

  • 国内IT上場企業 コールセンター 2015年5月 2018年7月

    ・ヘルプデスク / カスタマーサポート・ヘルプデスク 2015年5月 2018年7月

    仕事の内容は、書けないので、英語や心理学を使った経験の事を書いていきます。 僕がここで働いていた時は、結構、英語を使う事がありました。 主な仕事は、海外の事業所や企業とのやり取りでした。 コールセンターと書いてある通りで、電話やメールでのやり取りです。 僕は、Ieltsの取得後に初めて英語を使う仕事をさせていただく機会にもなりましたし、大学に行きはじめたタイミングですので、ちゃんと心理の知識を使って仕事をする機会にもなりました。 英語を使った仕事の中で、翻訳の仕事を初めて

  • 青年期のうつ病等との戦い 10代後半から20代はじめ 1996年1月 1999年1月

    ・学生 1996年1月 1999年1月

    カウンセリング、話のサービスを考えられている方に向けて、記載したものです。 この時期は、高校を卒業した後の話です。 すごく苦しいというか、痛いというか。 何か、ある意味、一生懸命でした。 その頃、僕は、とてもとても自信は無く、生きるためのスキルがありませんでした。 確か高校卒業後の半年程は、実家で暮らしていました。収入は、午前中に行う工場でのアルバイトです。 その頃は、アルバイト時間以外は、家に引きこもり生活をしていました。 親に暴力を振るったこともあります。 自分は、死んだ方がいい、この世から消えた方がいいと毎日考えていました。 リストカットは、数えきれないほど行いました。どの血管を切るのかを調べていたこともあります。切り口からは、赤黒い血は流れます。でも、死ぬことは出来ませんでした。 死にたくない自分がいたのも、覚えています。 そんな生活の中で、親に精神病院に行くことを進められ、通院しました。 その時の診断が、青年期鬱病でした。 薬をもらい、何が何か分からないけど、飲んでいました。 その時の医師のアドバイスで、時間のある時は、川辺を何時間も歩くようになりました。 人との繋がりは、徐々にインターネット上で行えるようになりはじめました。 丁度、2ちゃんねるや、mixi、チャットルームで人が集まるサービスが始まっていた時期でした。 そこに参加するのは、小さなチャレンジの連続でした。 そんな中、様々な危機感から、独り暮らしをはじめました。 まだ、薬は飲んでいましたり、リストカットも続いていました。 その頃から、本屋さんで精神医学等の本を読みあさり始めました。当時は、立ち読みしても、注意されることが余り無かったので、貪るように読んでいました。 そして、精神療法みたいなものをメモにとり、家に帰って、自分で自分に行うということをしていました。 この中で、少しずつ、自分の状態が変わるにつれて、リストカット等の自殺念慮は、減っていきました。 薬も無くても大丈夫と思う様になれました。 少しずつでした。 少しずつ回復していくことが出来ました。 人それぞれ、回復のペースは違うと思います。けれど、心の問題は、良くなれると思います。

  • 恋愛のお話 2010年1月 2011年1月

    ・なし 2010年1月 2011年1月

    これは、僕の初めてのちゃんとした恋愛の話です。 僕は、心にずっと余裕が無かったので、20代後半になり、初めてちゃんと好きな人と一緒に過ごすようになりました。 ずっと、仕事や生きることで、一杯一杯になっていて、余り、考えた記憶もありませんでした。 生きることに一杯一杯になるのは、子どもの頃に大きなショックを受けてしまい、その記憶を背負って生きている人には、起こりうることと精神科医の本や記録にもありました。 僕の一緒に時間を過ごした好きな人とは、ニュージーランドで出会いました。 場所は、僕がシェアハウスに移動するまで泊まっていたゲストハウスです。とはいえ、移動するまで、4ヶ月ありましたが。 彼女も僕とほぼ同じタイミングで、ニュージーランドにやって来ました。 彼女は、友達カップルと一緒に来ていました。 不思議と僕は、3人で、一緒にご飯を食べたり、遊びに行くようになりました。 僕は、とても心地が良かったのを覚えています。 3人は、生まれたくにも違うし、経験も何も違うけれど、何故か、同じ感覚を感じました。 そうやって過ごしている内に自然に2人で過ごすようになりました。 僕は、こういう経験をするのは、人と比べると遅かったのですが、運が良かったのは、心理を通して、心の事を学んだり、コミュニケーションの事を学んできていたので、運も良くて素敵な女性に出会ったんだと思います。 当然、実際は、色々な課題が自分の中で出てきました。 自分の気持ちをどう伝えればいいのか。 同じ時間を作ること。 自分のタイミングや彼女のタイミングがありますよね。 そういう色々なことを、考えさせてくれて、教えてくれたのが彼女でした。 色々な葛藤もあったので、悩みもありましたし、味わったことない感情もありました。 別れたときは、1日ずっと泣いていました。当時は、自分でもよく分からない感情でした。そういう辛さは、大切な気がします。 この時は、僕は、彼女のことだけ考えていたのですが、親の事などを考えていくと、色々なことがあることを後々、知っていきました。

  • 拒食症、過食症と向き合って 1996年1月 1999年1月

    ・なし 1996年1月 1999年1月

    ○カウンセリングをお考えの方に向けて、書いていきます。 僕は、以前、この症状を抱えていた時期があります。 最初に固い言葉になってしまうけれど、過食症、拒食症の説明をしていきますね。 それは、この症状を持っている人に伝えたいからです。既に調べられているかも知れませんが、簡単に記載します。 拒食症の正式名称は、神経性やせ症です。 過食症の正式名称は、神経性過食症です。 どちらも摂食障害になんです。 過食症や拒食症というのは、心理的ストレスを受ける状態で、発症すると言われています。 厚生労働省等で発表されているからだの症状です。 ・余り眠れない日が続いたりする。(睡眠障害) ・月経が止まったり、不規則になる。 ・体重の変化が大きい。 ・疲労感、胃もたれ、便秘等が起こる。 心にも色々な苦しさを抱えていると思います。 ・うつのような症状 ・社会から孤立をしていたり 色々な苦しみを抱えていませんか? 僕は、当時は、訳の分からない苦しみを抱えていました。 ここからは、僕が摂食障害だった頃の話をしていきます。 僕が摂食障害を発症していたのは、青年期うつだった頃になります。 過食と拒食の何方も発症していました。 自分の場合は、これらの症状が、ずっと出るわけではなくて、過食症が一時的に出たり、拒食症が出たりしていました。 症状が出るときは、自分の収入で買える食べ物を沢山購入してきて、お腹に詰め込みます。そして、その後にそれを吐いていました。 もちろん、吐かずに終わることもあります。 当然、体調不良に繋がります。 自分で、自分の身体を壊していること、傷つけたがっていることを、自分でも分かっていました。 僕にとっては、リストカットと同じ行為に近いものがありました。 それは、 自分の虚しさ。 価値を感じられないこと。 自尊心の低さ。 そんな原因が僕の摂食障害には、あったと思います。 僕にとっては、心の苦しみが無くなるに伴い、摂食障害は、消えていきました。 と同時に、自分で食べるものや量をコントロールするトレーニングもしました。 人それぞれ違いはあるけれど、ずっと続く症状ではなくて、少しずつ、回復していけます。

学歴

  • 国内大学 通信教育課程 心理学部 こども心理学科 / 学士 / 2018年4月 〜 2019年8月

    大学に行くことを決めたのは、自分が心理学を独学で学んできたことと、それをしっかりと学んだという形、実績を作ることを考えたのが始まりでした。 色々な不安もありました。 社会人で仕事をしながら、学べるんだろうか。 大学では、何があるんだろうか。 4年も続けられるのだろうか。 そんな不安は、つきませんでした。 大学の入試は、複雑ではありませんでした。 レポートを提出するというものです。 レポートを書いては、当時、お世話になっていた方に見たもらい、書き直すということを、提出期限前まで、繰り返していました。 その結果、多分、何とか合格でした。 授業は、独学で学んできて知っていること、知らないことなど、様々なことがありました。 管理職の方の計らいもあり?、仕事中の空き時間にも勉強し、レポートを書きながら、何とか期限に間に合わせることが出来ていました。 とはいえ、3年から4年に上がる際に単位不足で、留年してしまうなんて事もありました。 それは、学校に行って、受けないといけない授業を見事に必要なだけ、受けれていませんでした。 これが難しかったんです。 ずっと、働いていたので、中々、学校に行く時間を作れないなーと考えている内に、留年しました。 その後、半年遅れで、4年生になり、勉強を進めて行きました。 しかし、卒業前にまたしても、単位不足で、卒業が出来ない状況となってしまいました。 それも同じ様に、学校に行き、授業を受ける必要があるものでした。 何とかその授業も受けて、無事に卒業!まで辿り着けました。 何時もレポートを書くことを考えたり、ネットでの試験勉強を考えたりの日々は、勉強が好きな自分には、楽しくもあり、何時も期限と試験に追われる日々でした。 今思うと、どうやって、やってこれたのかも、分からないくらいにもなっています。 個人的には、心理分野の様々な知識は、集中出来ましたし、特に子ども臨床や犯罪心理学が強い興味を持てる部分でした。教育の授業では、音楽が楽しめました。 また、公認心理士の必須科目も終了しました。

  • 国内の福祉専門学校 精神保健福祉 / 2020年4月 〜 2021年2月

    精神保健福祉課程を終了し、国家資格を取得しました。

  • スタンフォード大学提供のコース 児童栄養学 / 2024年2月 〜

    児童栄養学を中心に家庭内での料理、栄養、ダイエットに関して学んでいます。

  • オーストラリアHHH、ニュージーランド語学学校 Upper Intermediate / 2010年2月 〜 2011年2月

    僕は、子どもの頃に英語に触れる機会がありました。 その時は、何だか分からないけど、カードゲーム等で、英語を勉強したり、そこで会う人達と話すのが、楽しかったことを覚えています。 それから、20代前半の頃にワーキングホリデーでオーストラリアに行った時が英語を真剣に学び始めるキッカケだったのかとも思います。 多分。僕は、引きこもりでしたので、その時に、人種も越えて色々な人達と関わる楽しさを経験出来たのは、大切な宝物かもしれません。 結局、ワーキングホリデーは、1年経たずに、終わりにして、日本に帰ってきました。 時間は経ち自分が20代後半になる頃、改めて、海外に行き、勉強する事を決めました。 その時にIeltsを取ることを決めました。 TOEICを学ばなかったのは、ワーキングホリデーで訪れたオーストラリアがイギリス英語だったためです。今は分からないのですが、当時は、大学の入学要件等は、Ieltsが優先でした。 そこで、オーストラリアでも1.2位を争うHHHという優れた学校がブリスベンにあったので、申込むと無事に入学許可と学生ビザの発行をしてくれました。 そして、いざ、オーストラリア!となり、ビザも持ってブリスベンに到着しました。 そして、まず、明日から勉強する学校に行ってみようと思い、学校に向かいました。 そうすると、衝撃の事実が発覚しました。 学校が1週間前に倒産していたんです。 あの時は、本当に何が起こっているのか、分かりませんでした。 ただ、たまたま、他の生徒だった人がいて、話を聞くと、HHHの生徒は、学校グループの保険のようなもで、他の学校に移ることが分かりました。 手続きを終え、1週間程で、新しい学校に移り学びつづけることができました。 たまたま、HHHの一番上のクラスと一緒になりました。 それは、ラッキーというか、国際機関やオーストラリアで働くために来た医師や薬の研究者や色々な研究者と一緒に学べました。 その後、今度は、ビザの問題などがあり、改めて、ニュージーランドの学校へ。 無事に入学でき、その3か月程に、試験を受けて、無事にIelts6.0の取得ができました。 あの時は、心から満足感があったのを覚えています。

受賞歴・執筆歴・講演歴

  • 受賞

    学生時代の図書館での読書数 3年連続1位 1995年1月

  • 受賞

    書道 子供の部 入賞 1994年3月

  • 受賞

    ミシュラン3つ星シェフの下で研修 2012年7月

  • 受賞

    オーストラリアトップの語学学校に入学 2009年2月

  • 受賞

    タイのバンコクで半日、駅員をする 2009年1月

  • 受賞

    海外レストランで、アジア人であるもスーパーバイザーと呼ばれる 2010年8月

  • 受賞

    高校にある農園で、美味しいレモンを作る 1998年8月

  • 受賞

    国際機関の会議に参加して、英語を鍛える 2010年4月

  • 受賞

    ココナラ電話サービスで、声が良いと誉められる 2022年1月

  • 受賞

    ココナラでブロンズランクを頂きました! 2022年1月

  • 受賞

    ココナラでブログに初挑戦 2021年10月

  • 受賞

    日本トップの成果を出している福祉学校を卒業 2021年10月

  • 受賞

    ココナラでサービスをご購入いただきました。 2021年1月

  • 受賞

    本が好きで、数千冊の本を読んできました。 2022年1月

  • 受賞

    青年期うつ病から、立ち直りました 2002年1月

  • 受賞

    自傷行為、自殺行為から立ち直りました 2002年4月

  • 受賞

    ネパールの山にこもり、修行しました。 2022年4月

  • 受賞

    オークランド大学でIelts試験を受ける 2010年1月

  • 受賞

    ココナラシルバーランクを頂きました! 2023年7月