経歴

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  • オリンピックスポンサーの一部上場大手企業 / 総務部/秘書 2017年2月 2020年1月

    セラピストとして独立する間までの 一時的なお仕事として、 経験のある秘書業務に、 派遣で就業しました。 私は、雇用されて働くと、 問題がどんどん降ってくるという 西洋占星術上の星回りがあり笑 やっぱりこの職場でも 就業当初は嫌な思いをしました。 そこで、今まで学んできた 心のスキル、スピリチュアルを 最大限発揮して過ごした所… 卒業するときには、 本当に周りから大事にされて、 幸せな会社生活を過ごすことが 出来ていました! 具体的に言うと、 私の場合は『イイコちゃん』で いようとし過ぎて、 仕事だからとイエスマンになりがち。 だから、しっかりと 『ノー!』を言うようにしてみました。 人によっては何でもないことかもしれないけど、 めちゃくちゃ勇気がいりましたよ… 頑張りました! 周りの環境が良くなった時は 感動したなあ…(*^-^*) もちろん、紆余曲折もありました。 マーケティング・スクールにも通いながら フルタイムで仕事をしていた為、 心身に負荷がかかっていました。 人生を変える時って 自分が望んだこととはいえ 簡単にはいきません。 帯状疱疹になってしまったんです… しかも、顔! 初めは、頭痛だと思って 脳外科を受信したけど 異常がなかったから発見が遅れて お岩さん状態にっ汗 おかげで、人生初の1週間の入院を 経験しました。 会社も2週間ほど、 お休みする羽目になりました。 もちろん、職場の方々は、入院の時期も その後の、経過の通院の時も、 優しく受け入れて下さったので、 自分に厳しい私としては、ほっとしました。 今もちょこっとだけ、 目の横に、眼鏡跡の様な形で 跡が残っていますが、 ほぼ完治しました。 今までの人生で大病をしたことがなかったので 良い経験になりました! 行った職務内容  ◆ 電話対応・来客対応 ◆ 郵便物処理 ◆ ファイリング ◆ 経費伝票処理 ◆ 備品発注 ◆ 挨拶状作成 ◆ イベント補助 ◆ ボスのスケジュール管理 ◆ 出張手配 ◆ 社印押印対応 ここまで読んで下さるなんて、感激です! ありがとうございました(*^-^*)

  • 製造系一部上場企業 / 総務部秘書室/秘書 2013年8月 2016年9月

    紹介予定派遣から正社員に 秘書として入社した会社です。 一部上場企業で お給料も申し分なかったと思います。 状況が落ち着いている時期も ありました。 この職場で人生打ち止めかな? と、思った時期もありました。 お給料が良かったおかげで 占いやスピリチュアル等 色んな事にお金をかけて 学べた時期でもあります。 そして、神社仏閣巡りも たくさんできました。 が、が、 やっぱり色々事件が 起きちゃうんですよね~ メンヘラ上司がいたり 先輩が逆マタハラをしてきたり 上司や後輩が、本人達の混乱の挙句に 後始末を押し付けた上、居直るなど… 秘書は狭い世界にいることもあり、 続けることは出来ずに 3年で退職することになりました。 ↑ 私的最長在籍記録! 今、振返って思えば、 ああしておけばよかったという反省 学びになった、等、色々あります。 『い続ける』という選択は出来ないけれど 『業務』としての仕事は、 ほとんどの職場で全うしていたという 自負はあります。 ※日本の会社はどんなに働かなくても 10年20年と続けてこそ、 価値があるとされますね。 上の人には好かれやすいし 周りにもソツなく対応が出来て 重宝がられ過ぎて 何故か周りに染まれないというジレンマ・汗 結論から言うと、全ては 今の道に進む為に 仕組まれていたとしか思えません。 ようやく・笑 ほとほとオフィスワークは 嫌になりました ここでようやく、オフィスワークは 業務としては出来るけど エネルギー的に不具合が生じると諦めました。 AMIが何かしなくても、 事件が起きて 振り回されるんです。 何事もなく会社にいれる人って 本当に何事もなくいれるのに不思議です。 他の道を行くことを 本格的に決めましたので それまでの繋ぎだと、 最後の職場を派遣一択で探しました。 独立してセラピスト業をすることが 頭をよぎりましたが、 まだこの段階では、怖さが勝っていました。 そこで、別の仕事を当初は目指していたのですが 結局はセラピストとしての お仕事を目指すことになったのは 導かれたとしか言いようがありません。

  • 創業100年以上のファミリー系大手運輸業 / 秘書室 2013年2月 2013年8月

    天職探しの旅の真っ最中…汗 友人知人からは 「また仕事変わったの~? (ワガママなんじゃない?)」 って言われるので、必要以上に 自分の事は言わなくなりました 。 我慢が足りないのではと責められるだけでなく そんなにすぐに次の職が見つかってすごいね! というニュアンスの人いますよ。 いずれにしても、わたしの本質を 分かってもらうのには程遠いな… と見切りをつけたからです。 *.○。・.: * .。○・。.。:*。○ さて、次も中々の難門続きでした。 どうやら自分には、お試し期間のある 紹介予定派遣が良さそうだと 探してみて、経験のある 秘書業務で勤め始めました 。 こちらが…残念!!! ファミリー企業で、古い体質 ワンマンな人が牛耳っているタイプの 会社だったのです。 社員化の暁には、 24時間対応を求められたり 自分より10歳以上年上の社員(就職未経験)の方が 出来ない仕事のフォローをしたり… ↑ただ仕事が出来ないのではなく 「○○時にお電話して下さい」というような まともな伝言すら出来ないレベル。 以前の職場で北朝鮮みたいな職場がありましたが こちらはまるで戦時中の様な職場でした。 お察しの通り、無理!ですよね~ お陰様で秘書スキルだけは ぐんぐん上がっていきましたが 社員化は辞退し、半年で退職しました。 ↑私的な最短記録! 退職するときに、残って欲しいの 条件が非常識だの色々と揉めまして・笑 しかも相手が、元関取の大男だったので 人に物申すのは結構 ここで度胸がつきました。 我ながら、今は笑い話ですが 当時は必死です・汗 数年後に 他の職場の派遣社員さんとも お話して実感しますが… ややこしい職場に引っ張られがちな人は 間に派遣会社が入ってもらえる 派遣社員は結構合っています。 そして、ずっと同じ職場にいる、というのが そもそも無理!という体質の方は AMIも含め、一定数おられますので ご自分のタイプを理解する必要があります。 とりあえず、その当時は この方向性でいくしかない、とは思った為 先の方針も紹介予定派遣で 人生のかじ取りを進めることにしました。

  • 製薬系の一部上場企業 / 一般事務・営業事務 2011年9月 2012年9月

    金融機関の正社員の仕事を辞めた後 考えたのは… すぐに、正社員として縛られるのは 怖すぎる!という点でした 時代的にも紹介予定派遣が 出始めていた時期でしたので まずは紹介予定派遣の可能性がある 企業を探ってみようかな?と思ったんです そこで初めて派遣社員として 働き始めました しかも自宅から徒歩圏内だった為 体力的にも楽でした 働いてみると派遣というポジションは AMIに合っていたように思います HSPという特性上、色んな事が分かり過ぎ 請け負って疲れる所があったので ここまで!という 線引きがあるのが良かったんです 職場の方々にも良くしていただきましたが 紹介予定派遣に切り替えるにしても、 理系の会社だった為、 一般事務は契約社員になるとのことでした 派遣は合っているけど、 一生できる訳でもないし… ということで、1年で契約満了とし、 次なる道を模索する旅路へと進むことになりましす ちなみに、この頃から両親には 仕事の辞めた就職したは 言わないか、事後報告になりました・汗 言ってもけんかになるか、 心配され過ぎて、 自分が不安になるので… 親との最適な距離感の取り方も 少しずつ学んでいった時期でもあります また、この頃、他の働き方を模索し、 自分の世界を広げるべく 副業をしてみようとしました きっかけは、色々習い事をしているけど 空いた時間をもっと自己成長の為に お金を得ながら有意義に使えないか? というものでした そこで巡り合ったのが 婚活パーティのバイトでした これが、当たり・笑 学生時代のアルバイトの 銀行での電話対応並みの緩さ&高時給 開催補助だけだったのが 司会をすることになったのも 後々に活きてくる経験でした 当初は人前でしゃべるなんて とんでもない!って感じでした それが徐々に、 決まった内容を言うだけなら わたしにも出来るかな?となり… やってみたら、 むしろ向いていたようです・笑 ここで得た人前で話をするスキルは 今のお仕事にすごく活きていると実感します 住んでいた大阪ではなく 神戸で仕事をしたので 神戸に行けるのも楽しかったです

  • 金融機関 / 総務部(受付)⇒秘書室(秘書) 2009年11月 2011年8月

    とある医師会を退職した後、 金融機関に受付や秘書として 勤めることになりました。 父、母、妹が銀行に勤めていた経験もあり 家系的には金融に縁はあるかと思うのですが… ここが、多分底です・笑 当時は衝撃過ぎましたが、 今は笑い話な 北朝鮮の様な職場でした… 入った初日から、経営者の奥様に 強制的に手土産を持って挨拶に連れていかれて 「やっちゃった!ここヤバイ」 と、同期と叫んだのを覚えています。 お昼時間がまともに取れないなんて 日常茶飯事でした。 休日なども自由参加という名の 強制イベント参加(無給)があったり 寒空の中、ずっと外にいたりと 色々とエピソード満載の職場です。 救いは、同期がいて、 性格の良い子たちだったこと。 同年代の子たちと きゃいきゃい♪はしゃげるのは 楽しかったです。 そして、正社員だったので、 折り合いの悪くなった家を出て 一人暮らしが出来たこと。 とはいえ、一人暮らしをスタートしたことも 職場で面倒なことになる一因にも なってしまったんですけどね… コンタクトの調子が悪くて 眼鏡をかけただけでも、 面倒なことになった子がいたような 職場だったんです。 完全にヤクザのいちゃもんの様な部類で ちょっと意味不明だと思いますが 事実なんです・笑 出したお茶がぬるかっただけで、 「風邪をひかす氣かー!」 って文句を言われていた人も いましたっけ… 同期が会社に無断で来なくなり 連絡も取れずで、 一人暮らしの自宅に行っても 行方知れずだったり(遠い目) 50代の課長さんが、 上司が怖くて駅のホームで 出勤出来ずに動けなくなったり というエピソードも(遠い目、二回目) ともあれ、職場が厳しかったおかげで 仕事が身についたり 礼儀作法をしっかり身につけられたのは 以後の人生に役にたっています。 同時期に、 プロトコールスクールにも通い しっかりとマナーを身につける きっかけにはなりましたね。 そこをふまえても もちろん、そんな職場が 当然長く続くはずもなく 1年9か月で終了!です。 わたしは平穏に何事もなく 過ごしたいのに… という願いは中々、叶わないんですね…

  • 某市医師会 / 一般事務 2008年9月 2009年9月

    東京から大阪に戻ってきて 勤め始めたのですが ここからが多分、 一番辛い時期の始まりです・汗 まず、母と上手くいかなくなりました。 母的には、夢に向かって頑張っている 娘を応援していたのに~ って感じだったのが コロコロ転職する我慢の効かない娘の様に 見えて、裏切られたキモチだったのだと 思います。 AMIとしては、今も昔も、 目標は変わってOKだと思うのですが これを説明する言語能力も知識も 当時はありませんでした。 その上、仕事も結局上手くいかず… 元々、新卒の時の同期の誘いで とある市医師会に勤めたのですが 事務局を20代の女の子二人だけで回すという 無理のあるシステム・笑 ある意味、怖いものなしの新卒か、 経験豊富な30代以降なら やれたのかもしれませんが、 一番中途半端かつ覚悟の足りない人材でした… 結局、元同期とも上手くいかなくなり 半年で限界を迎えて退職しました。 もうどうすれば分からない状況でしたね。 夢や目標があれば救いがありましたが それすらも見失った状況… それは、まだ数年続きます 逆算すると、あと、10年くらい・爆 当時の自分に伝えたら 絶望しかないとは思いますが、 だからこそ、今の私があります! この頃から、西洋占星術や自己啓発 スピリチュアル等のブログや本を 本格的に読み漁り始めました。 そして、チャンスがあれば、 講座や鑑定や講演、セッションを 受けに行ってみることにしました。 まだ、自分が提供する側に立つなんて 思ってもない時期でしたが、 世界が広がりつつある時期でした。 人生が行き詰まりになった時、 ピンチはチャンスなのですよね。 当時は分かりませんでしたが 今、振返ってみると、よく分かります。 だから今、辛い思いをしている場合は 経験がむしろ糧になるよ と、お伝えしたいです。 *.○。・.: * .。○・。.。:*。○ 経験した職務内容 ◆ 電話対応・来客対応 ◆ レセプトの提出補助 ◆ 市民の特定健診の取り纏め ◆ 理事会運営準備・議事録作成補助 ◆ 行政(市役所関連)への提出書類作成 ◆ 年賀状・お礼状作成  ◆ 備品発注・その他庶務

  • 大手航空会社系の旅行会社 / 電話オペレーター 2005年11月 2008年9月

    医局秘書をしながら、 旅行主任者資格が取れたので 旅行会社に応募してみた所、 東京での就職となりました。 20代半ばでしたが 一人暮らしをしたことがなかったものの 迷いはなく、関東に住むことになりました。 東京に住む友人のアドバイスを受け、 治安の良さそうな東横線沿いの 日吉駅(横浜市)に家を借りました。 慶応義塾大学の近くの 大学街だったので、 一人暮らしはしやすかったです。 母にもついてきてもらい、 色々と準備をしたり(*^-^*) 改めて振り返ると、 お金の支援はありませんでしたが 食べ物を送ってもらったり、 色々とバックアップをしてもらい感謝ですね! J〇L系だったので、 飛行機の割引もあり 3か月に1回くらいは 大阪にも戻れていました。 そもそも、一人好きなので ホームシックにもかかりませんでしたが… 関西に戻った時や、 鎌倉等、神社仏閣巡りを し出したのもこの頃です。 それ以外にも、東京の各所を 自由に回れたのは楽しかったです。 自由が丘や田園調布が大好きで 通勤経路ということもあり 日参していました。 お仕事自体は電話受付部署だったので 経験もあり、今、思い返してみると 比較的平穏な時代かもしれません。 色々と悩みはあったはずですが、 打ちのめされるようなことは なかった時期です。 シフト制だった為、 平日休みの良さも実感できました。 とはいえ、この先、どうすれば良いのか、 という揺れにより、次第に30歳を前に 大阪に戻った方が良いのか?という思考になり 2年と10か月で退職することにしました。 契約社員から正社員なったし 勿体ないという考えも あるかもしれません。 …本当にそうでしょうか? 実はこの数年後に、J〇L倒産 東日本大震災の波がやってくるので 後々考えてみると、辞めて正解だったのです。 といっても、大阪に帰っても 大変な日々が待っていたのですが… *.○。・.: * .。○・。.。:*。○ ◆ 旅行の予約受付(電話対応件数:平均20~35本/日) ◆ 予約を受ける際のマニュアル作成(事務) ◆ 書面での発券デスクへの発券依頼(電話後の社内処理) 

  • 国公立系大学病院 / 脳神経外科医局/秘書 2004年6月 2005年10月

    新卒で入社した仕事を辞めたAMIは 「この先、どうしよう…?」 と、考え出します 元々、大学生の頃から、3年で 「何かやりたいこと」を見つけて 辞めるとは決めていたものの 何をしたいかは決まっていません そこで図書館に通いつめて、 自己啓発本を読み始めました 2004年頃の当時は今ほど 充実していませんでした ネットの情報も今ほどには 充実していませんでした 自分なりに考えた結果 旅行が好きだから 旅行系の仕事に就くのはどうだろう? と、決めます とはいえ、就職氷河期真っただ中 簡単に就職できるとは 思わなかったので、まずは 旅行の資格を取ることにしました どうやら難しいらしいから 専門学校で勉強する期間 それまでの繋ぎの仕事を探す必要がある ということで見つけたのが 大学病院での医局秘書の仕事でした 音楽系の大学を出た同級生などが 同職種によくついていて 馴染みがあったのです 後になって思えば 長く携わることになる秘書業務の 最初の一歩でした ここでも、課題が…汗 AMIが採用されたのは 脳神経外科 他の医局秘書さんからは 敬遠されるくらい 先生方がキツイ方が 多い科だったのです 大人になった今、改めて考えてみれば 内科や放射線科等より 訴訟のリスクの高い職種なので ピリピリするのは当然なのですよね また、血や内臓が苦手なのに そういったことが日常に身近にある 職場も、今にして思えば無理がありました しかもたった一人の同僚の女の子が 仕事をするつもりがないマガママタイプで 先生と不倫をして、ゴタゴタしていたという…汗 今のAMIならあしらえると思いますが 子どもだったAMIにはなすすべもなく 振り回される職場でした ここでもよく泣いてましたね…笑 とはいえ、元々仕事自体は簡単なこともあり 何とか仕事に慣れてきたり、味方を見つけたりして 生活にも慣れて楽しくなってきて 「このままでもいっかな~?」と思ったものですが… 母から、「正社員じゃなきゃ!」 というプレッシャーを受けたこともあり、 旅行主任者資格を取得した直後に 受かった旅行会社に就職することになりました

  • CMでよく見かける食品メーカー / 営業事務 2003年4月 2004年3月

    AMIが社会に出たのは 就職氷河期真っただ中! 正社員の就職先が事務職で 決まっただけでも 良しとされる時代。 今も、CMでよく見かける 食品メーカーに勤めました。 まず、地方にあった本社に 集められて研修を受けました。 この時点で、世間知らずには 辛過ぎました・笑 そして、実際のお仕事がスタートしてからも とにかく古い田舎の体質の社風が 肌に合いませんでした。 同期と愚痴ばっかり言ってましたね よく泣いていました。 土日は靴を履きたくなくて 一切外に出なくなりました。 毎日、栄養ドリンクを飲んだり マッサージに通ったりしていました。 今のAMIなら、 解決策もいくつも思いつきますが 当時の自分は本当に未熟でした 世間知らずが世間を知った時代です・笑 過保護に育ったタイプの インナーチャイルドが 暴走していた典型的なケースです。 思い返してみれば 先輩や上司の方々は 力になって下さろうとしていたと思います。 決して悪いだけの環境では ありませんでした。 中学校から大学まで私立の お嬢さん学校で、 社会に対する免疫というものが 本当にゼロでしたから。 ちなみに、5年後くらいに 同期と会ったとき まだ残っていた男の子に 状況を聞いた所… 西日本で確か100名以上採用されていた中 残っていたのは10名以下 とのことでした・笑 一応、営業さんの間では、 ブラック企業として有名だったので、 当然かもしれません。 ロスジェネ世代あるあるですね! AMI自身は耐えに耐えかね 両親に相談して、 1年で辞める許可をもらいました ↑許可をもらうっていう概念がまた… その時の父から出された条件は、 PCの資格を取るというもの。 秋ごろからPCスクールに通い始め 会社を辞めてからのモノもありますが 最終的にはワード、エクセル、パワポ、 アクセス等の資格を取得しました。 この頃の経験が、その後の 資格収集癖に繋がっていきました。 経験した職務内容 ◆ 電話対応・来客対応 ◆ 請求書作成 ◆ 売上報告 ◆ 納品伝票作成 ◆ 入金処理 ◆ 経理伝票仕訳・入力確認 ◆ 受注入力

  • 裏千家茶道教室 2009年5月 2016年3月

    ↑終了時期は、話し合いがあったので ちょっと曖昧… 天職探しの習い事サイドからの 道のりです 日本文化を海外に紹介するのとか 良いな~♪と思って 茶道を始めてみました 京都の大先生に通いに行く程の 熱心な先生のもと お稽古をスタートさせました お茶会にお出かけしたり 楽しかったです 亡き祖母が茶道をしていたこともあり 喜んでくれていたような感じもしました 続けたかったのは 山々でしたが… 私の運命の路線変更を促す流れが 習い事にまで手を伸ばしてきたようです 茶道の先生はキツめの短気な性格 茶道のイベント事で他の先生の生徒さんを 怒鳴り飛ばしたり 他の先生に噛みついたりして 渋い顔をされたり・汗 標的を定めて 年に1人ずついじめて生徒さんを 辞めさせる傾向がありました 私も標的になり 難癖三昧になったことが続きました 元々の自己肯定感の高さが幸いして 相手に問題があることは分かっていたので 凹むことはありませんでしたが、 もちろん疲れるし嫌でしたよ お金を払っているのに いじめられるのなんて 嫌に決まっていますよね 先生の性格に難があったのとは真逆で 生徒さん方は本当に素晴らしい方々ばかりだし 茶道も好きだったので悩みましたが 結局耐えかねて辞めることにしました 「あなたを慕っている○○さんや 面倒を見てくれた先輩方の 思いはどうなる?勝手だ」 と、責められましたが… 冷静に考えれば 生徒が減る事を嫌がる故の 先生都合の身勝手な理論だと 理解しています いずれにしても 人から感情をぶつけられるのは嫌なモノ 大人になりきれていない人間の 哀しさも見ました 何より、ご縁を繋ぎたいなら 相手への思いやりに 配慮する事を忘れてはいけないという 反面教師です 70を過ぎ家族もなく一人暮らしだった為 ボケが始まっていた可能性もあります 辞める時も含め良い経験! 日本文化は素晴らしいですが 伝統の世界は、融通が利かなかったり 建前が大事だったり、しがらみという 闇の側面もあります 今は茶道経験者の友人と一緒に 茶道イベントに参加する程度で カジュアルに楽しんでいます

  • 書道教室 2004年5月 2019年2月

    好きな事を仕事にしたいと 社会人になってから探し出した時 過去の経験を活かせないかな? と、思い再開させたのが書道でした 祖母が嗜んでいたこともあり 小学校の時には大きな賞を 獲ったりして得意だったんです 社会人2年目で習い始め 大阪から東京に行った時も続けました 東京生活が慣れない中 行く場所があったのは ほっとする空間でした しかも場所が中目黒でおしゃれで・笑 ちょうど息子さんばかりの先生で 私の母と同じ年代だったので 可愛がってもらえました 大阪に戻ることになってからも 先生の姉弟子さんを紹介して下さり 応援していただき、有難かったです 大阪に戻ってからお世話になったのが ベテランの先生 生徒さんが、私の先生でもいいくらいの 先生の先生、といったおばあちゃまでした 若かった時は、厳しかったのですが 私は一番若手でしたので 優しく可愛がっていただきました ただ、習っていく中で 私が書道の先生になるには才能的に 向いていないな… というのは分かってきました 先生資格は取ったものの 自分が教えている姿が 思い浮かばなかったんです 勿体ない思いもありましたが、 私の帯状疱疹発症と 先生の認知症の可能性が出てきたことから 卒業しました お稽古に電車を乗って行っても 忘れて出掛かけていることが 2度ならず3度4度続いたり 電話でお休みすることを伝えても忘れていたり… 生徒さんも、一人抜け、二人抜けと… 私が辞めさせていただく時には 3人位だけになっていたので 先生にとっても頃合いでした もちろん書道は年をとっても出来る 一生モノの趣味ですが 私レベルではやり切ったな… という感があります 始めた当初は 海外で教えられたら良いな~ とのささやかな野望もありましたが とてもとても・笑 最近、書道をしている方々と お話する機会に恵まれ 同じ様な事を考えている方に 年代バラバラで二人お会いしました ひらめきは何人もの人に訪れるもの 叶えてこそ現実化します 後は、それを叶える為の 根気や運気や能力があるか? なんです だから、叶えたい事があるなら 行動していくしかないんですね

  • 京都の某女子大学 / 音楽学科 1999年4月 2003年3月

    中学・高校とオーケストラ部で バイオリンを弾いていたり、 小さい頃からピアノをしていましたので 大学では西洋音楽の歴史を学びました と言っても、演奏学科ではないので、 バイトをしたり、クラブ活動をしたり、 一般教養の授業を楽しんだりと ステレオタイプの大学生活を満喫しました SPEEDの影響があった時代だったので、 ダンス部に入り、 体を日常的に動かすという 私にとっては、レアな体験をしました 引っ込み思案だった私にとって、 度胸をつける為の、 良い機会だったと思います。 卒業旅行は ミラノ・ウィーンです 大学が音楽学科だったので それっぽい所にいこう! と、友人と盛り上がったんです(*^-^*) 個人旅行だったので、 自由きままに動き回れたのも すごくAMIに合っていました ミラノでは、ドゥオモのエレベータで 男性に褒められました・笑 やっぱりイタリアの男性は 女性を見るとご挨拶のように 口説くんだ~ とか、体感して可笑しかったです また、前週にハワイに一緒に行った友人と 偶然にもミラノで遭遇するという、 楽しいハプニングもありました! 日本人の行くところなんて、 決まっているとはいえ、 すごいですよね~ 彼女は、イタリア縦断の旅をしていたんです そして次なるウィーンはとっても素敵でした… 海外旅行のおススメを聞かれたら、 間違いなくウィーンと答えます 治安も結構良いし、 ロマンティックです 美しいお城もあるし、 ザッハトルテも有名ですよね 美術館も素晴らしかったのですが、 やはり狩猟民族というか… お肉を食べている国の人の絵、 というパワフルさで圧倒されました 疲れもあったのか、 ちょっとクラクラする程・汗 そしてウィーンオペラ座で観たバレエは 忘れられません… 毎週関空にいるレベルの 旅行しまくりの時期の疲れで、 うとうとしながらジゼルを観たので、 余計に夢の様な情景でした・笑 また、帰りの機中で、隣になった方から プラハの素晴らしさを耳にしたので 今度はプラハと一緒に行きたいなあと 夢見ています 強行スケジュールでしたが、 本当に行って良かったなあと思います

受賞歴・執筆歴・講演歴

  • 執筆

    関西の主要企業が作成する会報誌『M』⇒わたしの口福グルメ寄稿 2016年3月

  • 講演

    700名越えの協会に招待を受けZOOM講演⇒風の時代について 2020年11月

  • 受賞

    ココナラプラチナランク確定 2021年7月

  • 受賞

    ココナラ販売実績100件 2021年4月