「きれいな技術か、歪みある美術か」人工知能の校正をどこまで受容するか?

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コラム
優れた音楽と良い音楽は違う。人々の心を揺さぶるのは良い音楽の方だ。文学も同じである。綺麗で読みやすい文章は広く世間に馴染むが、心を揺さぶる文章はどこか歪みが残るものだ。

ドストエフスキー『罪と罰』の原文を、現在の推論モデルとしては最上位にあるo1 pro mode(ChatGPT)で忠実な直訳を行ってみると、次のようになる。

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(ロシア語原文)
В начале июля, в чрезвычайно жаркое время, под вечер, один молодой человек вышел из своей каморки, которую нанимал от жильцов в С — м переулке, на улицу и медленно, как бы в нерешимости, отправился к К — ну мосту.

Он благополучно избегнул встречи с своею хозяйкой на лестнице. Каморка его приходилась под самою кровлей высокого пятиэтажного дома и походила более на шкаф, чем на квартиру. Квартирная же хозяйка его, у которой он нанимал эту каморку с обедом и прислугой, помещалась одною лестницей ниже, в отдельной квартире, и каждый раз, при выходе на улицу, ему непременно надо было проходить мимо хозяйкиной кухни, почти всегда настежь отворенной на лестницу. И каждый раз молодой человек, проходя мимо, чувствовал какое-то болезненное и трусливое ощущение, которого стыдился и от которого морщился. Он был должен кругом хозяйке и боялся с нею встретиться.

(忠実な日本語訳)
七月の初め、ひどく暑いある夕方、S—の小路で住人から借りていた小部屋を出た一人の若者が、通りに出て、まるでためらっているかのようにゆっくりとK—の橋の方へ向かった。

彼は階段で女家主と顔を合わせるのを無事に避けることができた。彼の小部屋は、高い五階建ての家のほとんど屋根裏にあり、部屋というよりはむしろ押し入れのような場所だった。一方、昼食と召使い付きでその小部屋を貸し出している家主は、一つ下の階の独立した部屋に住んでおり、彼が外へ出るたびに、ほとんどいつも階段に向けて開け放されている家主の台所の前を通らねばならなかった。若者はそこを通るたびに、何とも言えない痛々しく臆病な感覚に襲われ、それを恥じて顔をしかめるのだった。彼は家主に多額の借金があり、彼女と出くわすのを恐れていたのである。
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この日本語訳をo3モデルで校正をお願いしてみると、この箇所だけでも「こう修正した方が良いかもしれませんね」というアドバイスがある。私の師父であるドストエフスキーにツッコミを入れるとは良い度胸じゃないか。具体的な校正案としては、次の内容が示される。

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七月初めの、ひどく暑い夕方――S――通りの裏路地に間借りしていた小部屋を出た若者は、通りへ出ると、ためらうかのようにゆっくりと K――橋へ歩き出した。
階段で女家主に鉢合わせることは、幸運にも避けられた。小部屋は五階建て家屋の屋根裏同然にあり、部屋というより納戸のような狭さだった。女家主は一階下の独立した部屋に住み、昼食と召使い付きでその部屋を又貸ししていた。若者が外へ出るたびに、ほとんどいつも開け放たれている台所の前を通らねばならない。通るたび、胸が締めつけられるような惨めさと臆病さに襲われ、顔をしかめた。家賃をかなり滞納しており、家主と出くわすのを恐れていたのである。
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「綺麗な技術的な文章」が欲しいのであれば、GPTの方が正しい。しかし、文学としての論理学的な深みや存在感、味わいを覚えるのは、むしろ直訳の方なのだ。そちらは歪んではいるが芸術的な性質を帯びている。文章は綺麗な方が良いが、文学は汚れがなければならない。

今回の私の文章も久しぶりに「生身の文章(人工知能の校正に掛けていない本当のアナログ文章)」で、おそらく歪んだ読みにくさを感じると思う。だが、そこにもやはり味というものがあるに違いない。もちろん、それが万人に受け入れられるかどうかは別の話になるので、何が正しいと思うかは創造主次第である。
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