日本で1番敷居の低いカウンセラー②

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神経質で顔色を見て生きる少年時代(’93~’01)

小学校のときには、友達の影響で地元の剣道の少年団に入った。暑い!くさい!つらい!の黄金3点セットを兼ね備えたこの鬼畜スポーツ!
厳しすぎる稽古は、厳しすぎるお母さんに比べたら息抜きみたいなもん。
干からびて脱水症状になりそうな時でも水はNGやったけど、持ち前のズル賢さでトイレの水道水を飲んで生きのび、並外れた我慢強さで6年生最後まで耐え抜いて三重県大会で優勝し、全国大会にも行くことができた。
初めて自信がついた瞬間やった。

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ただお母さんは稽古にも試合にも見に来てくれやんかった。
「あんた剣道上手くなったん?」
っていうセリフは友達の母が聞いてくれた…
嬉しかった…あざす!
練習どころか、お酒飲んで練習後のお迎えを忘れられることもあった。
最後まで母を待つ俺ら兄妹に、友達の母
「乗せてったろか…?」と言ってくれる。
「ううん!お母さんもう来る!ありがとう!」
とウソをついて片道4キロ夜道を妹と泣きながら走って帰ったこともある。
お母さんに甘える事ができやんかった。
というか、甘える隙を見せてくれなかった。
”ほおっておいたら恥をかく”
”自分の事は自分でしやなあかん”
過保護の逆「放置プレー教育」により
小学生ながら研ぎ澄まされた神経質になっていた。
そして、頑張れば何とかなるという事を少しづつ分かっていった…。
中学では「幼なじみの友達がおるで…」の理由で
入りたかったサッカー部ではなく卓球部に入った。
(やりたかった剣道部は3年前に廃部)
卓球部には気の合うメンツが居らず、部活に行く回数が減ってったけどお得意の人に合わせて顔色を見るマンで、友達とは上手いことやっとった。
ちなみに小中学校の9年間の学校生活で”うんこ”をした事はない。
”友達に何を思われるか分からん”のと、超恥ずかしがり屋で内気な性格だった為、ストレスと一緒にうんこも耐え抜きました。
※おかげ様で便秘症は今でも健在。
神経質で自己主張できない少年は、人に合わせて生きるものまね人間で学生時代を終えていく…。そんな気がしていた中2の終わり…。

天気の子ならぬ、人生の天気(転機)(’02~’03)

中3の春にクラス替えで人生は変わった。
一緒に剣道をやっとった幼なじみを含む4人組の仲良くなったグループは、県内トップレベルの高校を目指す”カシコ島野郎ども”。
そのころの俺といったらこんな感じ…。

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周りの友達が通っていたので塾や家庭教師もつけてもらった。
それでも成績は変化なし!本当のバカやった。
空気が薄い山の上に住んでいたのは、幼なじみも同じ…言い訳できやん。
テストの合計点数を1~10段階で評価する数字はずっと「2」
カシコ島野郎たちは「7~10」…うん、友達になっていけないレベル!
いっきに押し寄せてきた恥ずかしさと焦り…。
顔色を見て生きる人生…
それは自分の家庭環境も大きかった…。
・小6で親が離婚し、寂しい思いをしたこと…
・家賃3千円の風呂無し市営住宅に住んでいること…
・家に犬が5匹もいて、制服につく臭いや毛が恥ずかしい…
・弁当箱の入れ物が恥ずかしくてナフキンで隠しながら食べたり…

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世間体を気にして家庭環境がバレないようする事に必死やった。
寂しいやつ、貧乏なやつって思われるのがめっちゃ恥ずかしかった。
だから隠しとった!…でもテストの点数は隠せやんかった!
塾の先生にも「このままいったら〇〇高校のレベルやな」と言われる始末
(うそやろ…?アホ高校やん…恥ずかしすぎる…)
とヘラヘラして焦っていないふりをした。
休み時間、俺以外のカシコ島野郎は、勉強の話ばかりで付いていけやん。
仲間に入れない疎外感…ヘラヘラしながら話を合わせる事にも限界がきとった。
気が付いたら塾と家庭教師を辞めて、卓球からサッカー部に転部していた。
初めて自分の意志で決断して行動したことやった。
それから友達から誘われる”遊び”というものを全部断わり、机にだけ向かった。
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勉強したことが無いでやり方がわからん。
頑張っとることを周りにバレたくないで、友達に聞けない。
だから自己流で"ひたすら教科書をうつす"作業を繰り返した。
もともと塾と家庭教師以外の時間は宿題もしやん0時間男が、1日に10時間以上は勉強した。
ビビるくらい成績が上がらんくて当時理由は意味分からんだけど、少しずつ…少しずつ… 上がっていった!
病気か !ってくらい勉強する俺を見てお母さんは
「もう勉強辞めな!」
って言ってきたけど無視してやり続けた。
早く就職して貧乏生活を脱出したかったのもあり、当時就職率100%と言われていた県内一の公立工業高校を目指してた。
学校の先生や友達にも「ゆうやそれは無理やろ…」と言われていた。
推薦入学も希望した。推薦に響くなら…!と校内の駅伝選手に候補し、別に足が速かったわけじゃなかったけど、死ぬ物狂いで走って、駅伝選手になった。
でも中学3年間の内申点が影響するので推薦されず…ダメ…。
全ては試験当日の1発にかかっとった。
公立受験の前に受験した市立の難関の進学校が落ちると思って受けたら、なぜか合格!(なぜ中卒の私の子が?)お母さんは泣いて喜び「頑張って働くで大学まで行ってくれ!」と言われたけど、それも無視した。
お母さんは、自分にはできない勉強を地道に頑張り続け、結果を出す俺を見る目が変わっていた。

「工業高校に行って、大企業に入る…俺はなる!」(ちょっと違う)
受験の直前は追い込みすぎて人生初の金縛りを体験。
おばけの女の子にも「勉強しすぎだYO」みたいな目で見られたのち…
中3の最後のテストには自己最高の段階「7」にまで上げる事ができた。

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人生で初めて選んだ自分の道に揺らぐものなんてなかった。
⚫︎アホ家族と貧乏は恥ずかしい
⚫︎お母さんを見返ししてやる!という反逆心
それだけで、ラストスパート死ぬ物ぐるいで机にむかった。
そして、県内一の公立工業高校に入ることができた。
学校の先生や友達は泣いて喜んでくれた。
クラスは9クラス中、下から2番目の学科ではあったけど、この高校に入れることが夢みたいやった!


明日に続きます。(こんなにジらす意味ある?)

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