ノブレス・オブリージュの恋

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 物部紗夜が恋人に殴り殺された夏、私は幸福の絶頂にあった。念願の子どもが生まれ、郊外の新築マンションに越し、仕事も順調だった。

 産休明けに配属されたのは、一学年に一クラス、一クラスに二十人程度しかいない小さな中学校だった。空気は綺麗で、子ども達は純粋で、同僚や先輩もみな穏やかだった。

 毎朝元気のいい挨拶と共に登校してきて、始業前には自主的に席に着き、授業を妨害するような子は一人もいなかった。積極的に手を挙げ、質問をし、みな楽しげに学んでくれた。授業後には部活に精を出し、あるいは自習をし、恋バナをし、暗くなる前には一人残らず家に帰った。私たち職員も遅くとも十九時には家に帰ることができて、家に帰ってからも突然の呼び出しに怯えることなく、ゆっくりと湯船に浸かり、読書をして、夫と息子と三人で眠ることができた。

 私が教師を続けることを最後の最後まで不安がり、しぶしぶ育休を取っていた夫も、帰宅してからすぐ部屋着に着替える私を見ると顔を明るくして、すすんで育休の延長申請を出してくれた。

 かわいい息子、優しい夫、未来のある生徒たち。何一つ不満のない生活。

 本当に、本当に幸せだったのだ。紗夜の訃報を聞くまでは。本当に。

     ○

 夢や希望を抱いて教師になったわけではなかった。大学では教師の嫌な面を散々、嫌になるほど語られたし、教育実習で三十も年上の国語教師から、汚い言葉で何時間もなじられたこともあった。教師になったのは、資格を取るための勉強や実習で忙しく、就活に乗り遅れたからに過ぎなかった。

 それでも、なったからには真面目にやろうと思っていた。学生のときから真面目にやらなくても、平均点以上を出すことは簡単だった。その自分が真面目にやるのだから、上手くいくだろうという不真面目な打算と驕りがあった。

 だからだろうか。私の教師生活は、初日から挫折した。配属されたのは都内の女子校だったから気が緩んだ。それがいけなかったのかもしれない。教壇に立った私に向けられたのは、歓迎の言葉ではなく、無関心なまなざしだった。

 ショックだった。身長が高いせいか、学生時代から同性に好意を持たれることは多かったのだ。ファッションに興味を持つとそれは顕著になった。バスケを始め、メイクを覚え、煙草を始め、やめ、その節々で幾人の女性から黄色い声をかけられたか分からない。だから、女子校で好かれる自信はあったのに、向けられたのは無関心という名の批判だった。

 それから一週間足らずで、私を無視しない生徒はいなくなった。どのクラスでも、授業中にも拘わらずメイクをする生徒は何人もいた。スマートフォンをことさらに触っている生徒も、今日の合コンの日程を決める生徒も、すべて無関係のような顔をして寝ている生徒も。共通しているのは、彼女たちの机に教科書が開かれていないということだった。

 何度も注意した。効果はなかった。三ヶ月が過ぎたころ我慢の限界に達し、一度だけ怒鳴ったこともあった。そのときは隣の教室の先生が様子を見に来てくれたが、彼女たちはその瞬間だけ真面目に授業を受けているふりをして、困惑の表情を作った。

「岬先生さあ、真面目に授業を受けている生徒にあんな怒鳴ることはないでしょ。ボクの方までびっくりしちゃったよ。確かにあの子達には軽いところがあるけど、根は真面目なんだからもっと根気よく向き合ってあげないと。それに岬先生は好かれてるんだから。好意を無下にするようなことしないであげてよ」
 放課後、生徒指導部の教師は、懇々と言い聞かせるように私を叱った。

 この件で彼のことを責めるつもりはない。彼女たちは聡く、悪辣だった。本性を見破ることなど、誰もできなかっただろう。表面上だけ私と仲良くすることで、他の教師の目を退けていたのだから。

 もし私がそれを許していなかったら。今でもその未来を想像することがある。狎れてくる彼女たちをきちんと撥ねのけることでができたら。

 そうしたらきっと、こんな学校で教師を続けることも、生徒が死ぬことも、物部紗夜に脅されることも、私がストーカーに遭うことも、今の夫と出会うことも、田舎に引っ越すことも、子どもが生まれることも、紗夜が死ぬこともなかったはずだ。

 どちらがよかったかなど、今でも私には分からない。


 紗夜の訃報を聞いた翌日、私は早速地元へ向かった。夫は詮索してこなかった。ただ、いつものように「気をつけてね」と送り出してくれた。学校には昔の教え子が死んだから地元へ帰ると伝えた。突然休暇を取ることにみな嫌な顔一つせず、「気をしっかり持ってね」と励ましてくれた。

 鈍行電車に揺られながら、事件のことを調べた。いくつかの記事の概要を纏めるとこうだった。

《七月十七日。部屋から異臭がすると、アパートの大家から警察に連絡があった。警察が調べたところ、室内で物部紗夜さん(十九)が死亡しているのが発見された。遺体は死後数日が経過していた。事情を知っているとして、警察が同居していた風間篤容疑者(二十二)に話を聞いたところ容疑を認めた。動機については詳しく語っておらず、警察は恋愛関係のトラブルがあったとして……》

 よくある事件として処理されたのだろう。終着駅に着くまで、目新しい情報は見つからなかった。

 五年前の記憶を頼りに紗夜の実家に向かった。同じ顔をした一軒家の建ち並ぶ住宅街はまるで迷路のようだった。十分ほど歩き回り、ようやく「物部」の表札を見つけた。他の家と同じ面構えをしていることが、なぜかひどく可笑しかった。あの物部紗夜が、こんなにもありふれた家に住んでいるなんて、と。

 インターホンを鳴らすとすぐに応答があった。
『取材ならお断りしておりますが』
 若い女性の声は、疲れ切り、とがっていた。姉の旭だろう。私はあらかじめ考えておいた言葉を復唱した。
「喪中のところ、恐れ入ります。私、紗夜さんの中学生時代の担任を務めていた、岬薫子と申します。このたびは本当にご愁傷様でした。ご迷惑でなければ紗夜さんに線香を上げさせていただきたいのですが……」

 向こう側の声は震えていた。

『岬……先生。お久しぶりです。あれからお元気でしたか。岬先生にはずいぶんとご迷惑を……』
「昔みたいにかおる先生でいいのよ」
『……鍵は開いてますから、入ってください』

 インターホンは切られた。私はさび付いた門扉を抜けて玄関に向かった。ドアノブに手をかけると軽い音がして扉は開いた。

「お邪魔します」
「お久しぶりです。岬先生」

 出迎えてくれた旭はこの五年間でずいぶんとやつれていた。いや、紗夜が死んでからの一週間かもしれない。五年前は、まだ高校生なのに無理して大人ぶっている雰囲気があった。今は二十代なのに無理して若作りをしているように見えた。

「紗夜は奥にいますから、会ってあげてください。きっと喜びます」
 旭は、私を居間に通した。
「紗夜、岬先生が会いに来てくれたわよ」

 声をかけられた紗夜は、黒い額に囲われ微笑んでいた。遺影に使われていたのは昔によく見た、片頬をつり上げるような笑い方のものではなく、どこか恥ずかしげで慎み深い笑顔のものだった。

 線香を上げ、手を合わせ、いくつか決まったやり取りを終わらせてから、改めて旭と向かい合って座った。
「突然お邪魔してしまってごめんなさい。旭さんも忙しいのに」
「いえ。葬儀の手続きとか、役所への申請とか、書類上のことはすべて親戚がやってくれましたし。マスコミの応対には慣れませんけど、紗夜が死んだことを喜んだ罰みたいなものですから」

 旭は力なく笑った。かける言葉が見つからず、私は曖昧な言葉で慰めることしかできなかった。旭はそれを振り払うように、勢い込んで言った。
「それより、岬先生、紗夜のこと聞きに来たんですよね。なんで突然中学を辞めたのか。なんで家を出たのか。なんであの男と一緒に暮らしていて、なんで殺されたのか」

 私は気圧されるようにして頷いた。
「私、紗夜がいなくなってすぐ引っ越しちゃったから。何も知らないの」
「知ってますよ。そのせいで私は、ずっと一人だったんですから」
 どうして置いていったのか、と言いたげに私を恨みがましい目で見た。

 旭はこの五年で、あるいは一週間で、心までやつれてしまったのかもしれない。昔は、このような顔をする子ではなかった。だからこそ、紗夜から加害されていたのだ。紗夜は自分より弱い相手には強く、自分よりも強い相手には弱かった。

「それは……」

 私が言葉に詰まると、旭はふっと眉根を解いた。
「なんて。先生には先生の人生があるんですから、同じ被害者だからと言って、そんな過度な期待はしてません。……それに、私も知らないんですよ。紗夜がなんで、風間篤なんかと一緒に住んでいて、殺されたのかなんて」

 その名前を聞いた瞬間、全身が総毛立った。風間篤。身勝手で、自己愛が人一倍強く、粘着質で、神経質で、独占欲と暴力に溺れた、私の元ストーカー。

「あの子のことですから、怒らせるようなことでも言ったんじゃないですか」

 本当にそうなのだろうか。力では絶対に勝てない相手を逆上させるほど、あの子は向こう見ずではなかった。安全圏に自分を置きながら、人を攻撃するのが好きな子だった。

「……一度、風間篤の面会に行ってみるわ」

 そう言って立ち上がると、旭は目を大きくした。
「大丈夫、なんですか」
「気は進まないけど、本人に聞くのが一番手っ取り早いから」
 旭は心配そうな顔をしながら、玄関まで私を見送りに来てくれた。
「そうだ、先生。紗夜から手紙って届きましたか」
 家を出る直前、思いだしたように言った。
「いや、来てないけど」
「そうですか……。あの、勝手な頼みなのは分かってます。でも私、どうせろくなものじゃないだろうから捨てちゃって、でも改めて考えると気になって。だからもし届いてて、もし読んだら内容を教えてほしいんです。私のために読む必要は、ないんですけど……」
 おどおどしながら言われて、断れるはずもなかった。
「絶対に読むわ。それで絶対に伝えにくるから。手紙の内容も、殺された理由も。約束」

 旭は嬉しそうな、困ったような笑顔で、目尻に涙を浮かべながら頷いた。


 物部紗夜は、中学二年生の春に転校してきた生徒だった。低い身長と、ぱっちりと大きな目を持った童顔は愛らしく、最初はどの生徒も、教師も、私でさえ、彼女に好印象を抱いていた。

「物部紗夜です。前の学校までは親の転勤が多く、仲のいい友達がいなかったので、ここではたくさんの人と友達になりたいです。今日から一年間よろしくお願いします」

 庇護欲の掻き立てられる挨拶と、それに反して堂々とした紗夜の声は、彼女をクラスの人気者にした。誰もが紗夜と喋りたがり、どこに行っても彼女を中心に輪ができた。

 だが長くは続かなかった。半年後には皆、紗夜と距離を置きたがっていた。

「莉音ちゃんはポニーテールが似合うよね」

 その一言がすべての始まりだった。

 当然、女子校にもカーストは存在する。いや、多感な女子中学生が集まるからこそ、より残酷に、より明確に、彼女たちは自分たちを選別したがった。
 例えば、カースト上位の子がカーディガンの色を変えたとする。そうすると、その日を境に、彼女と仲のいい子以外がその色を着ることは許されなくなる。暗黙の了解を感じ取れず同じ色を着続けた子は、周囲から孤立させられ、いじめられ、やがて不登校に追い込まれるというふうに。

 紗夜はその機微を感じ取る嗅覚が異常に鋭かった。

 ポニーテールを褒められた莉音は、それまでショートカットにしようとしていたのをやめ、より高い位置で誇示するように、髪を結ぶようになった。

 暗黙の了解が始まった。学校中にその話は広まり、その日から、ほとんどの人間がポニーテールをしなくなった。ポニーテールは莉音と仲のいい子か、暗黙の了解を解せなかった子だけ。

 前者はもてはやされ、後者は疎まれ、紗夜はそれを加速させたがった。

「あの子、裏で莉音ちゃんたちの悪口言ってたよ。大して似合ってないくせにって」
 当然、嘘だった。紗夜はその子と話したことはなかったし、そもそも誰が孤立させられているかすら知らなかった。莉音も、その友人も、分かっていた。しかし誰もが心に秘める残虐性を、彼女たちだけは発露させる理由を与えられ、箍を外された。

 いじめられた子が自ら命を絶つまで、そう時間はかからなかった。

 だが、紗夜はそこで終わらなかった。誰もが上部だけで自殺者を謗り、心の中では責任を感じていることを見抜いていたのだ。

 莉音の友人たちにこう打ち明けた。
「正直、莉音ちゃんやりすぎだよね。人の命を奪ったのにヘラヘラしちゃって。あの子は人殺しなんだよ。普通に生きてていいはずないよね」
 本気で悲しそうに、本気で怒っているように、紗夜は言った。

 全員がこの話のおかしさに気づいていた。そして全員がこの話のおいしさに気づいていた。莉音を責めたら、自分は責任を逃れられる。責めなかったら、莉音の――人殺しの味方をしたことになる。

 次は莉音が吊し上げられる番だった。無視が始まり、嫌がらせが続き、教室の中央で断髪式がおこなわれた後には、莉音と接する人間はいなくなった。莉音も、前にいじめられていた子と同じ末路を辿った。そして、唆された莉音の友人たちは、その先を予感して学校を辞めた。

 これは、例え話ではない。

 学年会議で、幾度となく紗夜のことは取り上げられた。だが誰も具体的な解決策は持っていなかった。紗夜が直接的に誰かを加害したことは一度もなかったからだ。
 姿なき暴力に私たちはとことん無力だった。

 そうして、紗夜はいないものとして扱われるようになった。触らぬ神に祟りなしとでもいうように、誰もが本気で彼女のことを恐れていた。生徒も、教師も、もちろん私も。

 紗夜に声をかけられたのはそんな折だった。
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