【はじめに】(前回の回想)
―「心の細部に宿る記憶力」―
私が陽樹さんと初めてお会いしたのは、
彼が30代も後半に差しかかった頃でした。
ご紹介を通じて当カウンセリングルームを訪れてくださった彼は、
穏やかで誠実な印象を持つ青年でした ――
といっても、年齢的にはもう立派な大人ですが、
それでも私は青年という言葉を使いたくなってしまいます。
初回の面接で驚かされたのは、陽樹さんの「記憶力の質」でした。
単なる記憶の良さではありません。
出来事そのものに加えて、周囲の人物の発言、表情、空気感、
そして何よりそのときの自分の感情を驚くほど克明に語るのです。
私も長く臨床の現場におりますが、
ここまでの自己内省力と記憶の鮮度を保った方に出会うことは、
非常に稀です。
ASD(自閉スペクトラム症)の特性を持つ方が、
自分の過去をここまで言語化できることは、
ある意味で生きる力の一つだと感じました。
前回の第4話では、小学2年生の1学期に、
陽樹さんが「自分と他者との違い」に初めて戸惑いを覚え、
揺らぎ始めた内面を描きました。
そして今回の第5話。
物語はその続きとなる2学期から冬休みへと移り変わっていきます。
ここでは、陽樹さんがはじめて
「人間関係の力関係=強さと弱さ」という概念を意識し始め、
そこに葛藤を抱え、少しずつ優越や逃げ道を模索していく様子が
丁寧に語られています。
また、得意だったはずの「算数」で思わぬ挫折を味わったエピソードや、
閉校が決まった学校で過ごす最後の季節の寂しさなども、
彼の繊細な語りを通じて心に響いてきます。
「成長」とは、必ずしも前向きでまっすぐな歩みではありません。
ときにねじれ、ときにこじれながら、
それでも歩いてきた子ども時代の気持ちに、
私は何度も胸を打たれました。
では、ここから第1章・第5話、本編に入りましょう。
[1] 🧩「強い」「弱い」を意識し始めた日々
~陽樹が最初に気づいた「人間関係の力学」~
陽樹さんが「人間の強さと弱さ」に敏感になったのは、
小学2年生の2学期 ――
ちょうど秋の空気が色づき始める頃だったそうです。
この時期の陽樹さんにとって、教室という空間は、
単なる学びの場ではなく、
ある種力関係が可視化される場へと変わりつつありました。
誰が発言力を持っていて、誰が笑いを取れるのか。
誰が中心で、誰が傍に置かれているのか。
そうした「目に見えない序列」のようなものを、
彼はひしひしと感じ取っていたといいます。
「この頃から、自分が弱い側にいる気がしてならなかったんです」
そう静かに語る陽樹さんの言葉に、私は深くうなずきました。
発達特性を持つ子どもたちは、
目に見えない場の空気を読み取ることが苦手だと言われる一方で、
実際にはその場の温度差や違和感に人一倍敏感なことも少なくありません。
陽樹さんはまさにそのタイプだったのだと思います。
彼がとくに意識していたのは、
同級生との「趣味の違い」や「話題についていけないこと」。
たとえば当時流行っていたガンダム系のプラモデル。
多くの男子が熱中していた中で、
陽樹さんはまったく興味が持てなかったそうです。
会話には入りたかった。
でも入れない。
無理に話を合わせても、どこかぎこちなくなってしまう ――
そんな孤独な居心地の悪さが、彼の中に少しずつ沈殿していきます。
その一方で、陽樹さんは自分の「得意分野」を明確に持っていました。
そう、算数です。
計算力には自信があり、それが彼にとっての心のよりどころであり、
誇れる武器でした。
いわば、彼にとっての優位性の証明だったのです。
しかし、人は誰しも強さだけでは生きられません。
自分が弱さを感じるからこそ、強さにすがろうとする。
そしてその強さを守るために、時に無理をしてしまう。
この頃の陽樹さんも、まさにその繊細な綱渡りの最中にいたようです。
そして、その誇れる武器が揺らぐ出来事が、まもなく訪れます。
それは、思いがけない算数での挫折――。
続く章で、その出来事について詳しく触れていきましょう。
[2] 📚 プライドを揺さぶった「文章問題」