子どもの頃の痛みが、大人になっても消えない理由 ~被虐待者の苦痛~

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コラム
はじめに―
大人になってからの生きづらさには、
“性格”や“気分の問題”じゃ説明できないものがあります。

たとえば、
ちょっとした言葉で胸がざわついたり、
人の顔色を読むクセが抜けなかったり、
作り笑いで自分の気持ちや感情をごまかしたり、
誰かの怒る気配には
先に強気な態度をとり、強い言葉を遣ったり。

生きづらいです。

人といることは、私にとって
疲れることで、傷つくこと。

こういう反応は、
「弱いから」でも「繊細すぎるから」でもなくて――

子どもの頃の痛みが、
ずっと心の奥で生きているからなんだと思います。
私は、自分の中にずっと違和感がありました。

「何をそんなに怖がってるんだろう」
「どうしてこんなに気を使ってしまうんだろう」
「普通の人なら流せることなのに」

そうやって、自分を責めてばかりいました。

でも、それは性格のせいじゃなくて、
“あの頃の環境で、
 そうせざるを得なくなってしまった” だけ。

怒鳴られた記憶、
叩かれた記憶、
急に機嫌が変わる大人、
理由のわからない否定、
自分のせいじゃないのに謝らされる日々。

幼いころから叩かれてきたことも、
もちろん悲しかった。
今でも消えない
人前でも怒鳴られる記憶、
身体が飛んでいくほど叩かれる記憶、
トイレのスリッパで顔を擦られた記憶。

幼かった私が、
なぜそこまでされなくてはならなかったのか
今でもわかりません。

でも、大人になった今ふり返ってみると、
いちばん私の心に深く残っているのは、思春期の私に
 “プライバシーがなかったこと” です。

自室、カバンの中身、隠していた友人との手紙のやりとり、
携帯電話、ゴミ箱の中まで
「私だけの場所」はひとつもなかった。

誰かがいつでも入ってくる、
見られる、私物に勝手に触れられる、
境界線がどこにもないあの空気は、
叩かれる痛みとは全く違う、
私にとって“居場所のない恐怖” です。

それは20年も前の話なのに、
大人になった今でも、
ふとした瞬間に昔の感覚がよみがえることがあります。

相手にそのつもりがなくても、
生活や心に踏み込まれるような言動に触れるたびに、
胸の奥にかつての息苦しさがじわっと広がる。

作り笑いでのごまかしや、
強気な態度で相手をけん制してしまうのは、
親に頼るしかなかった頃の私が
今でも自分だけの居場所を守るのに必死だからだと思います。

子どもにとっては「家庭」が世界のすべてです。

そこで身につけた反応は、
大人になっても自動的に出てしまう。

傷ついていた自分を守るために覚えた行動は、
大人になったあとも、なかなか解除できない。

だから私は、
大人になったいまでも“同じパターン”で苦しくなることがあります。

人に嫌われないように動きすぎてしまったり、
誰かの何気ない表情や言葉、行動に
急に感情がザワッとして涙が出たり、
自分を責めるスピードだけが異様に早かったり。

他の人が平気そうに見える場面で、
自分だけすごく疲れやすいときもあります。

それは劣っているんじゃなくて、
“昔の自分がまだ痛がっている” だけなんだと思います。
被虐待者として育つというのは、
「強くなる」ことじゃなくて、
「傷が深いまま、大人になる」ということ。

だから私は、今日も言い聞かせています。
私は弱いんじゃない。
ただ、誰よりも必死に生き延びてきただけ。
生き延びるために認知を歪めるしかなかった。

そして、その痛みをこうして言葉にできるようになったことは、
私自身が少しずつ回復してきた証でもあります。

こうして言葉にしていくことで、
子どもの頃の自分の痛みや悲しみを昇華したい。
同じように苦しんでいる誰かが、
「私だけじゃなかった」と思える
小さな灯りになれたらいい。

そんな気持ちで、ここに残しています。
この話は、あと少し続きます。
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