司馬遼太郎が最後にノモンハン事件を書かなかった理由

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晩年の司馬さんはモラルのない日本人に幻滅していました。あれだけ日本人を鼓舞するものを書いてきたのに。彼の気持ちはよくわかります。もちろん病気のせいで気力や体力が失われていたのかもしれません。私は司馬さんのファンではなく、かといってアンチでもなく、司馬史観を盲信しない微妙な立場ですが、最後に彼がノモンハン事件を書かなかった理由について考察してみようと思います。司馬さんは元戦車兵でした。終戦末期に本土決戦について当時の上官に逃げ惑う民衆に出くわしたらどうすればいいかと尋ねて上官がひっ殺して行けと答えたエピソードはよく知られています。思えば彼の国家への幻滅はここから始まっていたのでしょう。晩年の司馬さんが最後に取り組んだのがノモンハン事件でした。しかしこの事件は日本の戦車が大活躍するシーンはなく、むしろぼろ負け。当時の戦車は戦車戦を想定して設計されておらず、装甲が薄いのです。あくまでも戦いの主役は歩兵で戦車は脇役というのが当時の日本の常識でした。司馬さんのモチベーションが上がらないのは当然です。旧ソ連の情報公開で実はソ連の被害が思った以上に甚大で、どちらの勝ちかはよくわからないことが明らかになりましたが、当時の日本では日本の惨敗という見方が主流であり、司馬さんもそのように認識していたと思います。こんな負け戦を書いても日本人を鼓舞するのは難しいと判断したのではないでしょうか。確かにノモンハン事件はソ連の強さが際立っているように感じます。驚くべきは大軍を投入するために線路を引いて列車を走らせることまでしました。ソ連の戦車は初めから無双していたわけではなく、むしろ初陣ともいえるこのノモンハン事件で大化けしたのです。開戦した頃は火炎瓶を投げれば炎上する張子の虎だったのですがソ連はとにかく対応が早く、すぐに改善してくるのです。まるで戦後の日本を彷彿させるかのごとく、ソ連の戦車はすぐに炎上しなくなり、どんどん強くなっていきました。戦いの終盤ではソ連の戦車を止めることはもはや至難の業でした。ほとんど弱点がなくなっていたのです。では日本はどうかというとどこにでもいるようなごく普通の部隊でした。新兵や年配の兵が多く、特に精強をうたわれていたわけではありません。それでも援軍や補給が乏しかったにもかかわらず、到着してすぐに開戦したため右も左もわからない状況で、この部隊は最後まで戦い抜きます。当時は帝国陸軍のピークでした。トップや参謀が超絶無能でも戦車が戦力にならなくてもあれだけ戦えたのですから、司馬さんほどの筆力があれば、きっと良いものができたでしょう。作家とテーマのすれ違いというか、これは一読者として非常に残念なことでした。
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