テレパシーの日本語

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IT・テクノロジー
英語をモノにできない、と悩む人々に出会うとつい

「どうしてできないんだろう」

言ってはいけない一言を、
心の中でつぶやいてしまう。

英語講師として、どうにか策を提案したり、トレーニングを提供するのだが、どうも根本的な「う~ん…」にぶつかってしまう。

そんなモヤモヤが
ある話との出会いでそうかと納得がいった。


日本語とは、もしかしたらテレパシーの言語なのではないだろうか。



ひっくり返すと、英語はテレパシー言語ではないので、全部音声に変えていかなくてはならない。


そうなると、どこからどこまで、どうやって、
馴染みのない音声で、相手に自分の考えを伝えるか、というのはもう本当に困難なことである。


昨今、英語ができなければ生き残れない、と血眼になって様々なサービスを試して自身のスキルを上げようと奮闘する人々に会う中で、ふとこう思った。




「日本語ネイティブの人は
自信をもってこの21世紀を生きていいかも」




この仮説は、『世界2.0』佐藤航陽著からインスピレーションを得て立ててみたものだ。


これからAIテクノロジーがどんどん発達した世界になってくると、
多くの情報が
より正確に
より欲しいカタチで、パッと手に入るようになる


映像も
音楽も
文章も


英語という言語って、このAIテクノロジーと構造が似ている、と思った。


特に英語でエッセイを書いてると、よりそうだと感じる。

一つのテーマについて、なぜなのか、順を追って一つ一つ丁寧に分かりやすく書いていく。


書きながら、めんどうになってくる


「こんなに細かく1つ1つ書かなきゃダメなのかな。」


ダメなのだ(笑)


一つのパラグラフは、完全なるサンドイッチでなければならない。


パン
タルタルソース
ハム
胡瓜
パン。

タルタルソースの次に焼きそばが入ったらダメだし、
胡瓜のあとにパンを入れないで、次のパラグラフに行ってもダメ。


でも、日本語は
タルタルソースの次が焼きそばでもOKな言葉だと思う。


文章の一つ、1つのパラグラフが統一して完結していなくても
それが許されてきた言葉ではないだろうか。


…ちがうかなァ(笑)



じゃあ、どうしてそういう見た目が何物か一目に分からなくなったサンドイッチの日本語が21世紀に必要なのか、それを操れる日本語ネイティブもいいんじゃないか、ということなのだが、それはこういうことだ。


それは、
言葉(ちゃんとしたサンドイッチ)と
言葉にしない何か(いきなり焼きそば)を同時に処理できる能力である。


会話をしている時に、言葉という音声を聞きながら、音声ではない発信に注意を自然と向け、自らもその波長に合わせて音声を発する。


もしくは、同じ単語や文章でも、発している人間の背景を感じ取って、真意をつかむ。


こういった処理プロセスが習慣化している言語が日本語ではないだろうか。




YESかNOか、はっきり言いなさい。
理由は何か明確に論理的に話しなさい。


私が英語トレーニングを受けていた時、これらのことがクリアできず、頭をかかえた。(今もそう)

そして心の中でこう思っていた。


「言わなくても、なんで分からないんだろう。」


これは常日頃から、

以心伝心
魚心あれば水心あり
言わずもがな


こういう文化に浸りきっていたからだと思う。



ずいぶん長い説明だったが、
だからこそ、
テクノロジー技術がさらに発展してくると、そこでカバーできない”電波の受信力”みたいな能力が意外と大事になってくる気がする。


分かりやすく言うと、第六感みたいな。
目に見えない
AIテクノロジーだけでは可視化できない、体験できない、そこここにある電波の揺れをキャッチする。


もしかして、日本人のみなさんはこういう自分の言語の利点に気づいてないんじゃないかと。


AIテクノロジーの発展は脅威ではなく
より自分の直観を信じることが試される世界になってくる、




そういう意味なんじゃないだろうか。



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