私はよく推し活向上の条件について「自分自身を整える」ということを提言しています。
これは推し活だけではなく人生の様々な場面において重要なことで、自分自身を幸せにするための最善の方法だと思っています。
自分を整えることについて難しいと考えたり時間が必要と考える人もいると思いますが、自分の満足度は自分の思考が作り出している基準なので、思考を変えるだけで直ぐに解決できる事があります。
中には「転職が必要なのか」「引越しが必要なのか」「離婚するべきなのか」というように、人生の大きな選択と行動をしなければ解決できないと思っている人もいるでしょう。
しかし、大きな行動に移さなくても思考一つであっさり解決してしまう人は意外と多いんです。
特に自分自身で無自覚で作り出したプライドで上手くいかなくなっている人は多く、その事に気づくかどうかで生きやすさは圧倒的に変わります。
【自分の不満との向き合い方】
例えば仕事に対して不満を抱えていて仕事が上手くいっていないと思っていた場合、もちろん転職するのも一つの手段になります。
しかし、転職が功を奏すのはその人自身が整っているにも関わらず周りの人間や会社自体がブラックであったり、足を引っ張る人の集まりの中に自分が置かれている時に限ります。
もしも今いる環境自体は良い会社で周りの人も普通だった場合、そこに合わないのは自分自身に原因があり、その思考を直さなければ転職しても同じ事で躓く事が予想されるでしょう。
もちろん自分に合った職場というのは必ずどこかにありますが、自分に合う事がいい会社とは限りません。
自分の不満の原因を考えた時、思考が作り出した不満である場合は今の環境を変えずに仕事を満足のいくものに変えることは可能です。
直接的に自分の心身に影響が出るものであればもちろん離れる事が得策になりますが、仕事が上手くいかない原因の中に「自分の思う自分の扱い方をされていない」という場合は自分自身の理想が現実と乖離している可能性は十分に考えられます。
【自分の思考と世の中との乖離】
特に不満を抱える人の問題に多いのが「自分はできる」「自分はこんなに頑張っている」という思い込みです。
確かにその人にとって頑張っている事は認められることで、褒められて当然のことではあります。
しかし、それを表に出してしまったり他者からの言葉や扱いを期待してしまうのは社会的場において相応しくありません。
世の中には同じ事をやっていてもそれを当然と思ってやっている人もいて、蓋を開けてみれば自分が頑張っている事は周りにとっての当たり前である場合があります。
自分基準の「できる」と「頑張っている」は場所によっては当たり前の基準値になっている事があり、自分が評価されない不満の中には周りとの思考のズレから来ている場合も。
推し活の場においても、自分はこんなに頑張って尽くしてるのに何であの子ばっかり対応がいいの!?と思うファンは少なくないと思います。
確かに自分自身の頑張りが認められない事に不満が出てしまい、モチベーションが下がる気持ちもわかります。
しかし、その贔屓されているファンは実は仕事を掛け持ちして寝ずにお金を捻出して全通していたり、自分より倍のお金や時間を推し様にかけていた場合、推し様に評価されるのは当然だと考えられます。
自分基準の頑張りを認めてもらえない、気づいてもらえないのではなく、自分の倍の目に見えない努力をしている人が賞賛されているという結果であることが往々にありますので、自分基準の頑張りが評価されるかどうかはその場に関わる周りの人の基準によって変わってくるでしょう。
中には自分の頑張りを「凄い!」と賞賛してくれる人もいるので、自分が置かれている状況下での周りの基準と自分の基準の違いで評価が分かれることは知っておくといいかもしれません。
【私の楽に生きる方法】
私自身は最初から「自分はできない人」と思って過ごすようにしています。
あるタレントさんが言っていた言葉が私の中で大きな転機となり、その方の言葉に救われて今の私の考え方になりました。
その方は「人は自分ができる人間だと思ってるから苦しくなるけど、自分はできる人間なんて思ってないから何か失敗しても”だってできない人間だから仕方ないじゃん”て失敗して当然だと思える」という事を言っていました。
当時の私にとってその言葉は目からうろこで、同時に今までの自分を振り返り「できる人間だと思っていた」という事実に気づいて恥ずかしくなりました。
この自分に対しての驕りが今の自分を苦しめているんだと考えた途端、できる自分ではなく、できないから学ぶ自分になろうと決めて生きやすくなりました。
他人から注意される事や指摘される事は怖いことではなく、自分が学べるキッカケなんだという思考に変わり、仕事や社会に出た時に理に適った指摘をされた時は素直に受け取れる事ができたんです。
昔は仕事のプレッシャーに対して「できなきゃダメだ」と思い込み、泣きながら上司に仕事の相談をした事があります。
新しい仕事だった事や自分が少し上の役職を付けてもらったことで、達成できない自分や不甲斐ない自分に対して負い目も感じていました。
上司は笑顔で「初めての仕事なんだからできなくて当然だよ(笑)そんなに思いつめなくて良いんだよ!」と励ましてくれました。
この頃は本当に自分自身で勝手にできる自分像があって、それにそぐわない結果や指摘されたことに対してストレスを感じていたんだと思います。
今思うと「自分はできる」という思い込みは本当に恥ずかしく、自分を信頼しているのではなく、ただの驕りやくだらないプライドだったと感じました。
20代前半でその事に気づけたおかげでそこからは凄く生きやすくなり、仕事に対しても変なプライドを持たずに過ごせた事で、ひょんなことから褒められる事もありました。
何で皆こんなに優しくて褒めてくれるのか、この感覚を持った後の私には不思議に感じましたが、よくよく考えると自分に対しての基準が低いのでちょっとした労いや優しさが沁みやすくなっているんだと思います。
以前、定年退職直前の女性上司に呼び出された事がありました。
仕事に対して厳しい方だったので、一対一で密室で話されるのはとても緊張した記憶があります。
誰もいない部屋でその方は「あんた本当に凄いよ、いつも誰も気づかない事に気づいて動いたり、どんな時でも淡々と仕事して他人のミスすら背負って文句言わずに仕事して周りには明るく振舞って本当に偉い」と泣きながら労いの言葉をかけてくれました。
若い時の私見てるみたいで本当に陰ながら応援してたよと言われ、私はこの時に自分がやってきた事を見てくれている人がいるんだと実感しました。
今まで厳しい指導をされたり注意された事は多々ありましたが、上司に対して嫌な思いをした事は一度もありません。
上司から受けた厳しさも、できない私にとっては言われて当然と思っていたので、全て理に適った事を言われていることは理解していました。
中には注意された事で腹を立てている人もいましたが、私からすると仕事に必要な注意であって理不尽な事は何一つなかったので、腹を立てている人はただ単にプライドが傷つけられただけなのだと思います。
退職直前になってまさかこんなに労いの言葉を贈られるとは思っていなかったので、普段からどう見られているのか、どう評価されていたのかは目に見えないものだと改めて感じました。
私にとって必要な注意は自分を正してくれる有り難い言葉だと思ってるので、自分の落ち度を理解しながらしっかり受け止めています。
むしろその注意があったからこそ直せた部分も多く、時間が経ってからその直した部分を褒められる事もありました。
できない自分は素直さを作る上でもとても便利で、変なプライドを持っていないからこそ人の意見を素直に聞くことができます。
恐らく私はあの言葉に出会っていなければ、今頃はただただプライドが高いだけの仕事のできない年だけ重ねた人になっていたかもしれません。
【誇りとプライドの違い】
私自身は誇りを捨てずプライドは捨ててよいと考えています。
調べてみると「誇り」は自分や所属する集団に対して抱く自信や満足感、「プライド」は自分に自信を持ち、他者からの評価を求める感情を指します。と記載されていました。
つまり誇りは自分以外のことが主体でプライドは自分が主体となる事なので、様々な人間関係において誇りは必要でもプライドは他者との関係のズレを生じさせるものになると考えています。
言い方を変えればプライドは承認欲求とも捉えられ、プライドが高いという事は承認欲求が強いという事。
推し活の場においてもファンが誇りを持ってファンとして活動している事と、ただ単にプライドが高いファンが集まっているだけなのは意味が違う事はわかると思います。
民度の高いファンが集まる場は自身のプライドではなく誇りを持って推し活をしている人達が集まり、反対に民度の低いファンが集まるのは推し様たちへの敬意や守る気持ちが無く、ただただ承認欲求が強い人達が個人を尊重して集まっているだけになります。
似て非なるこの二つの言葉を理解する事で、自分の持つべきものや捨てるものも見えてくるでしょう。
私自身もプライドは捨てても誇りだけは持とうと思っているので、当然理不尽な注意や八つ当たりに対しては受け止める事はしません。
この場に必要な正しさに従うことで、言われた言葉がその場に必要な忠告であったかどうか精査できれば、個人的な八つ当たりなのか正当性のある言葉なのかは判断しやすくなると思います。
【無自覚なプライド】
自分では意識していなくても、普段の仕事や学校、人間関係、家庭環境等、様々な場面で培われたプライドは推し活の場でも無自覚に発揮されています。
プライドが高い人が周りから「あの人プライド高いよね」と言われるのも本人が自己申告したわけではなく、周りが受けた印象や評価でプライドが高いと思われているので、本人に自覚が無くても周りは気づいています。
自分のプライドの高さを自覚している人はまだいいですが、無自覚でプライドが高い人は端々に自分はこれだけ頑張っている、評価されないのはおかしい、もっと自分を評価してといったニュアンスを他者に対して言葉や態度で出してしまっているので、人間関係が上手くいかないことに気付けていない事が多いです。
特に仕事とは違い自分が好きでやっている推し活に対しては「こんなに頑張っている」は通用しないと考えた方が良いでしょう。
推し活は本来趣味の領域であり、人に強制されるものでも頑張る場でもなく楽しむ場です。
自分が好きで行動を起こしている以上は自己責任であり、満たされない気持ちや賞賛を推しや周りのファンに求めるのは迷惑以外の何ものでもありません。
特にファン同士で楽しんでいる輪の中にプライドの高いファンが紛れ込むと自慢話や他人を落とす発言があり、場の空気を悪くしたりファンから嫌われたりと周りとの軋轢を生んでしまいます。
推し活を楽しむ事を忘れたファンの多くはプライドの高さが原因で、評価されない自分に落ち込んだり周りと比べて落ち込むなど、自分で無自覚に作ったプライドが邪魔をしているということが多いと感じました。
【改善へ向けて】
プライドを簡単に捨て去る事は難しいですが、自分で自分を認めず他者評価だけを基準に考えるといったことを止めれば少しずつでも改善してくと思います。
他者評価を気にしたり他人にどう見られているかばかり気にしている人は自分自身を見れていない事が多く、自分の理想像を基準にしていることで他者との目線の違いが生まれています。
本当はコミュニケーションが上手く取れないのに理想の自分は他者とコミュニケーションが円滑な人気者だと勘違いし、実際に輪に加わって変な空気を作ってしまう。
本当は年相応の見た目なのに自分は若いという勘違いから若く見られるという驕りで他者と接していて実際は周りからは若作りした痛い人と思われていたり。
本当の自分が見えていないと現実的な他者目線と乖離する事が起こり、理想の扱いとは違う結果にストレスを抱えるといったことが起こってしまいます。
性格や見た目は本当に努力して気をつけなければ直すのは難しく、現実を変えることが難しいのなら自らが今の自分を認め、そして受け入れながら納得するしかないのです。
他者の評価で満足するのではなく今の自分を認めて満足できる考え方に変える方法が一番の近道です。
自己肯定感の高い人は自分で自分を褒めたり等身大の自分の良さを認めることで他者の評価が無くても安定した思考を保つ事ができます。
自分で自分を満たせる人は一番エコであり敵を作りにくい生き方でもあるので、この思考が定着する事でどんな場面でも生きやすくなるでしょう。