グッド・ラック

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 平日の午前十一時がこんなに穏やかだなんて知らなかった。
 ぼんやりと目が覚めても、しばらくは布団の中でもぞもぞしていた。枕元のスマホをとってインスタを開き、知り合いや有名人や、知らない人たちの投稿を流し見する。なんでみんなこんなに早くから投稿してんだろう。そう思って画面の上の時計を見てみると、もう九時を三十分も過ぎていた。袋の底に残ったふりかけのように、わたしは外に出ようとしなかったけど、それでもようやく(たぶん十分くらいかけて)布団を退けて立ち上がった。
 部屋の空気は少し冷えていて、瞬時にわたしは布団を名残惜しく思う。一晩中わたしを暖かくしてくれた布団。そんなことを思いながら、薄めの毛布だけを引っ張って身体をくるんだ。ふう、あったかい。
 時間も時間だったので、朝ごはんはどうしようと迷ったけど、お腹のほうは正直で、「食べさせてくれ」と懇願するように大きく鳴った。すぐにお昼になるけど、簡単なものならお昼には響かないだろう。ということで、即席ツナマヨコーントーストを作った。ツナとコーンをマヨネーズで和え、食パンに乗せ、チーズをかける。最後にブラックペッパーを少量かけて、あとは焼くだけ。即席とはいえ、平日にしっかりと朝ごはんを作って食べたのはいつぶりか、思い出せなかった。
 食器を片付けて、今度は溜まっていた洗濯物を済ます。平日の朝からこんなことして、なんだか主婦っぽい。
 洗濯物を干そうとベランダに出た頃、時間はちょうど十一時になっていた。空は清掃業者が全力で仕事をしたあとのように澄み切っていて、少しだけ流れている雲がより空の青さを際立てている。わたしは洗濯かごを室外機の横に置き、欄干に両手を乗せて空を見上げた。鳩が一羽、空の高いところを南へ飛んでいった。子どもの頃は漠然と「鳥っていいな」と思ってたけど、よく考えると高度が上がると気流が不安定になるのだから、自由に飛んでるように見える鳥だって本当は結構大変なのだろう。わたしはちょっと反省をして、もう米粒の破片ほどの大きさになってしまった鳩に内心でエールを送った。
 とても静かで穏やかだ。でも、音が全くしないというわけではない。マンションの裏にはJRの線路が通っていて、頻繁に電車が走っているし、近くには交通量の多い交差点と都市高速があるから車の走行音も聞こえてくる。それでもわたしは、穏やかな朝だと思った。空っぽの箱庭に、わたしだけがポツンといるみたいな。みんなどこにいるんだろう。本当にほかの世界に行ってしまったみたいに、わたしがいる世界は密度を失って、軽くなっているようだった。
 風が吹くと、ちょっと肌寒さを覚えた。空の青さに気をとられて忘れていたけど、今は十一月なのだ。秋も成熟した頃合い。「秋なんてないよね」って誰かが言うのを、何回も聞いたことがある。これまではわたしも、うんうん、って思ってたけど、もしかするとそうじゃないかもしれない。空気が夏の影を残していると思いきや、時折冬がいたずらっぽく顔を出してくる。暑いなと言ってカーディガンを脱ぐ人の隣で、ぷるぷる震える手でパーカーのジッパーを首まで上げる人がいる。そんな「どっちでもないし、どっちでもある」状態そのものが、秋なのだろう。
 季節は今、秋だった。

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 わたしは昨日、仕事を辞めた。勤めていたのは北九州市内の公立高校の事務で、短大を卒業してから四年間、そこで働いていた。昇給とか昇進とかはあまり望めなかったし、定時を三時間くらい過ぎても帰れないなんてこともざらだった。ひねもす学校の一階の事務室に缶詰だったわけだけど、だから辞めたのかと言われると全然そうじゃない。全部で五人しかいない事務室に同年代の同僚はいなかったけど、隣の席だった廣田さんは気のいいおばちゃんだったし、三〇代半ばで妻子持ちついでに腰痛持ちの庄司さんはハンプティダンプティみたいでキュートだった。南次長はそれこそわたしのお母さんと同じ世代で、娘さんが姫路で働いているらしく、わたしを本当の娘のようにかわいがってくれていた。横田事務長は真っ白頭のおじいさん。わたしのことは若い娘ぐらいにしか思ってなかっただろうけど、それがむしろ気楽でよかった。
 仕事はいつも忙しくて大変だったけど、世に言うブラックではなかったと思う。もっと大変な環境で働いている人は大勢いるだろうし、そんな人たちから見たら、わたしなんて随分のほほんとしてるように見えるだろう。
 辞職については、事務長より先に次長に相談した。南次長は誰かが買ってきためんべいをぽりぽりかじりながら、「そうなの。辞めちゃうのね」と言っただけで、理由については大して訊かれなかった。たぶん、普段のわたしの調子から、わたし自身気づいてないことまで汲み取ってくれたのだろう。わたしが人生で一番辛い時期にいたとき、ちょうどいい距離で支えてくれたのも南次長だった。
 そのあと横田事務長にも辞職の旨を伝えた。事務長は「そうか。新しいところでも頑張りなさいよ」言ってわたしの肩をポンと叩いた。こちらは大してわたしの深いところまで見ていないのだろう。でも、くしゃくしゃに崩れたおじいちゃんの笑顔を見ると、ちょっとだけ安心した。
 そんなだから、仕事を辞めた理由については、わたし自身まだはっきりと「これ」というものを知らない。辞職を伝えて二ヶ月、これまでと変わらないペースで働いて、昨日も当たり前のように書類の山を片付けて、お疲れ様ですと言って事務室を出た。また明日もよろしくお願いします、と続くような「お疲れ様です」だった。妙な話だけど、それくらいわたしは学校事務という仕事の中にいて、それを嫌だとは思わずに生きていた。だからわたしは、今も自分がその仕事を辞めた理由がわからない。お父さんとお母さんにも、仕事を辞めること、まだ報告してないし。
 でも、こういうことって、実は結構あるんじゃないだろうか。直接の理由や原因はないけど、何かの歯車がカチッとはまってしまって、「あ、もう辞めよう」と思ってしまう瞬間が。仕事以外でも、例えば「あ、今日は車で広島まで行こう」とか、朝起きて隣で寝ている恋人を見て「今日、プロポーズしよう」とか。神様の息吹みたいなのが心を通り抜けて、気づいたら行動に移していることって意外に多いと思う。それは良いときもあれば悪いときもあって、人は案外そうやって生きているんじゃないかな。なんだって説明が求められる時代だけど、説明のつかない不思議なことも、本当はいくつだって残っているはずだ。
 ともあれ、わたしが仕事を辞めたということはまぎれもない事実で、記念すべき退職後一日目に、早速これから何をしていけばいいのか途方に暮れていたのもまた事実である。勤めていれば否応無しに一日の予定は決まっていくし、休日は限りがあるからどう過ごすか考え甲斐もある。でも今は、言わば時間の無限沸き状態。なんだかまっさらの平原に布の服のまま放り出された気分だ。何から始めていいのか、見当もつかない。
 とりあえずベッドにダイブして、スマホを手にして寝そべった。画面をアンロックしたとき、唐突に数週間前に南次長に言われたことを思い出した。
 湯布院旅行で買ったらしい湯のみを両手で包むようにして持った南次長が、「ワラちゃんワラちゃん」と小声でわたしを呼んだ。わたしがデスクに行くと、南次長は声のトーンを一層落として話したのだけど、それはなんてことはない、退職後にやらないといけない一連の手続きについてであった。つまり、早めに役所に行って税金・年金・健康保険の手続きをしておきなさいということだ。それを小声で言ったのは、周りの人たちに聞こえないように気遣ったのだろうけど、その時点でもうみんなわたしの退職を知っていたのだから大して効果はなかった。
 税金と年金と健康保険……行くなら北区役所だけど、手続きってどのくらい時間かかるんだろ。手続きについて試しにネット検索してみると、一瞬で二千五百万件の検索結果が出てきた。一番上にあるページを開き、これまた文字がびっしりと書かれていて、ちょっと流し読みしただけで、わたしはそっとブラウザを閉じた。そこから分かったのは、たぶん結構な時間がかかる、ということだけだった。
 ひとつだけ、「手続きは十四日以内にしなさい」とあるのが気になった。十四日を越えたらどうなるんだろう。まさか罰せられはしないだろうけど、面倒ごとが増えるかもしれないから、やっぱり早めにやっておこうと思った。でも、今日じゃなくてもいいはずだとも思って、ちょっと肩の荷が降りた。
 暗転したスマホをもう一度起動して、ニュースのダイジェスト、今日の天気、雨雲レーダーを一通り確認して、インスタを開く。スワイプしてフィードを更新するも、新しく表示されたのは海外の俳優さんたちのプロモーション写真ばかりだ。年明けに日本でも公開予定の映画の特報映像も上がっていたけど、それは数日前に配給会社が公開したのと同じものだったので、最初の十秒くらいを見てやめた。
 機械みたいに、わたしは親指を上下に動かしてページを下に進んだ。わたしがフォローしてるのはせいぜい八〇人くらいで、ほとんどが有名人、二割くらいが知り合い、あとは気になるお店とか。それでも色とりどりの写真が並ぶ画面を、なんとはなしに眺めていた。
 ふと、親指を置いて画面を止めた。釣り針が引っかかったような感覚があった。
 画面を上へと戻していく。新番組の案内や誰かのバースデーケーキを通り越して、引っかかった先にたどり着いた。
「ぷっちょさんか」
 藍色の皿にチーズケーキが乗っている。先端がぷっくりと膨らんだ、かわいらしいフォーク。皿と同じ素材らしいマグカップには深みあるブラックコーヒー。木目がそのまま残るテーブルに乗せられたそれらを、真上から撮った写真だ。写真のことはからきし分からないけど、素人が見ても圧迫感がなく、呼吸しやすい。コーヒーの香りが画面越しに漂ってきそうだ。
 投稿主はぷっちょさんだ。ぷっちょさんは福岡県内のあらゆるカフェを巡っては投稿するインスタグラマーである。フォロワーは三万人近くいて(ちなみにわたしのフォロワーは四十三人だ)、ぷっちょさんが行ったカフェは一日を待たずして客数が倍になるという噂である。一日に何件ものカフェをハシゴし、総投稿数は二千近く。ぷっちょさんの投稿を参考にしてカフェ巡りをするという人もかなり多いらしい。
 わたしがぷっちょさんをフォローしているのは、いわゆる「映え」だけに偏らない、本当においしそうな写真を撮るからだし、もうひとつ、顔出しを一切していないからということもある。ぷっちょさんは絶対に自分の写真を投稿しない。だからこそフォロワーは、紹介されたカフェを純粋に楽しめるのだと思う。「顔は知らないけど、存在はする」みたいな距離感が、わたしには心地がいい。ぷっちょさん本人に関しては、わたしが好き勝手想像していいからだ。本人を見たこともないのに、ぷっちょさんのイラストを描いて載せている人もいる。そういう人たちも、「自分の思いを勝手に乗せていい」ということに、心地よさを覚えているんだろう。
 ぷっちょさんの二千近くある投稿のうちのひとつにどうして引っかかったのか。それはたぶん、投稿の説明欄の一番上に【北九州】と書かれていたからだろう。ぷっちょさんは投稿をするときは必ず、説明欄のはじめに隅付き括弧でカフェのある地名を書く。多くは福岡市内(例えば【博多駅】【赤坂】【香椎】といった具合)かその周辺だから、北九州に来ていることが素直に驚きだった。
「ぷっちょさん、こっち来てたんだ」わたしは寝そべったまま足をバタバタさせた。
 投稿の説明欄を開く。ぷっちょさんの説明はいつも簡潔。地名に始まり、店の名前、頼んだメニュー、所在地、営業時間。それだけだ。食べ物の感想や値段なんかは一切書いていない。それもまた、さっきの「顔出ししない」というのと同様、見ている側の勝手な想像が許されているようで、わたしは好きだった。
 カフェは〈みにまる珈琲〉というらしい。聞いたことがないカフェだが、八〇人ほどしかフォローしていないわたしが知っていることなんてたかが知れている。ぷっちょさんが行っているくらいだから、わたしが知らないだけで、とても有名なお店なのだろう。さて、所在地を見てみると……
 北九州市小倉北区香春口***
「え、近っ」
 その場所なら、うちから歩いて十五分くらい。相棒の紅いもに乗っていけば、ものの数分で到着だ。
 わたしはほとんど迷わずに、今日はみにまる珈琲に行ってみようと決めた。家で無為に過ごせば、きっとつまらないことで悩み出すに違いないから、外に出るきっかけができてホッとする。区役所のことを忘れたわけではないけど、今日はその日じゃない。これはわたしの権限を持ってそう決めさせていただく。
 わたしは起き上がり、パジャマを脱ぎ捨てて早速出かけ仕度に取りかかる。今日は少し肌寒いようだから裏起毛のパーカーを選んだ。
 玄関の扉を開けると、子どもたちの歓声が聞こえてきた。近所の小学校はお昼休みなんだろう。裏の線路を電車が通り過ぎていく。音から判断するに、これは中津行きの特急だ。音で特急か普通電車か判るのは、約三年このマンションに住んでいるうちに身についた、全く役に立たない能力である。
 駐輪場に降りて、相棒・紅いもの鍵を開ける。運転免許証を持っていないわたしが、通勤買い物その他諸々の足としてこのマンションに越してきたときに購入したのがこの紅いもだ。紅いもは二〇インチの折り畳み自転車で、カゴ・LEDライト・ワイヤーロック錠さらにはシマノの六段変速ギアがついている優等生。深いパープルのフレームがとても気に入っている。出勤日はほぼ毎回、紅いもにまたがって学校まで行っていた。仕事を辞めて紅いもの出動回数も減るだろうとは思っていたけど、早速使う機会があってよかった。
 紅いもにまたがって、一漕ぎ、両足にぐっと力を入れる。「待っていたぜ」と言わんばかりに紅いもはぐんと前進した。

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