毒母との決別

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 結婚式が終わって二次会会場に移動する直前、母から電話があった。「二次会頑張ってね」みたいな連絡かと気軽に電話に出た私は、ああ、そうだったと思い出す。
 この人は、私の幸せが気に入らないんだった。

「何であんなこと言ったの?」
「あんなことって?」
「お金がないとか」

 結婚式終盤の母への感謝の手紙、私はありのままを書いた。母子家庭で苦労して育ててくれたこと、裕福ではなかったが一生懸命だったのを見てきたこと、ぶつかり合うことも多かったが彼女なりに必死だったのは伝わっていたこと。

 本当は言いたいことはもっとあった。毎日毎日当たり散らされて辛かった。お前なんていなければいいと言われて辛かった。私の若さや美しさ、手に入れようとする幸せにことごとく嫉妬して嫌味を言ってくる母が嫌だった。
 もっと暖かい親がよかった。悩みを聞いてくれて、共感してくれて、あなたならできると言って欲しかった。でもそんなこと言っても仕方ない。母からやっと離れられるあの結婚式の場では、母を呪うようなことは言うまいと思っていた。それは母のためじゃない。自分の質を保つために。

 でも結果これだ。沢山の人に祝福されて優しい言葉をかけてもらって、泣いてくれた人までいた中、母にとってはそんなことよりも「お金がなかった」ことを親類縁者の前で暴露されたことが我慢ならなかったらしい。

 幸せの絶頂の中でこんな風に水を差された私はさすがに少し落ち込んだものの、大切な友達や夫の大切な人達に失礼な態度をとるわけにはいかない。こんなことは忘れて楽しもうと切り替えて二次会に臨んだ。だけどどうしても辛くて親友にはその話をこぼしてしまった。彼女らは次の日も滞在するからと次の日も会ってくれた。そういえば、母と弟はいつ帰ったのかも知らない。

 母はきっと、今でもこのことに罪悪感を感じていないだろう。私も母に「あの時は辛かった」と言ったことはない。言ったところで意味はないことを知っているから。


 「親は自分の八割くらいの幸せを子に求める」という説を聞いた時、ものすごくしっくりきた。その通りだと思った。自分が悪い親になりたくはないし、どちらかと言えば子供には幸せになってほしいけど自分より幸せになってほしくはない。自分より圧倒的に大きな幸せを得て満たされる子供なんて絶対に見たくない。母からずっと感じていた思いだった。

 幼い頃は母は優しくて賢いと思っていた。弟に過保護なところはあったものの、無関心な父とは違い沢山話し、宿題もみてくれた。毎日ご飯も作ってくれたし掃除もしてくれたし髪の毛も結ってくれた。きれいで自慢の母だった。

 おかしくなってきたのは離婚してから。今思えば当たり前だ。女一人でこれから高校生の子供二人を抱えて生きていかなければいけないなんておかしくなっても当然なくらいの苛烈な日々だったと思う。今ならわかる。でも、当時はそんなことわからなかった。
 毎日毎日「地獄だ」「家政婦だ」「私の人生はお前のせいで終わりだ」と言われながら過ごす日々。
 悪いことがあれば私のせいと言われ、お年玉やお小遣いを貯めていても「急な出費だから貸して。貸してくれなければお前の携帯を止めることになる」と脅され、お金は戻ってこず。遊びまわる弟に大切な漫画を売られても「我慢しろ」と言われ、「弁償しろ」と弟に迫ると「かわいそうに。お前みたいな強欲な奴は見たことがない」となじられた。
 成長していく体を「いやらしい」と言われ、ムダ毛や体臭をバカにされた。「臭いからあっちで着替えて」「お前は胸が小さいね。私くらい大きかったら良かったのにね」「そんなにおなかが出ていて恥ずかしくないの」「うわ、すね毛ボーボーじゃん」「そんな眉毛でよく外を歩けるね」そんなことはほぼ毎日言われていたと思う。

 私は黙って言われっぱなしだったわけではない。かなり反発もしていたし暴言も吐いていた。「お前なんか親じゃない」みたいなことも何度も言った。お互い様と言えばお互い様かもしれない。でも、私はまだ高校生だったのだ。
 ことあるごとに「お前はいつかひどい目に合う」と言われていた。母はその呪いの言葉に全エネルギーをかけているように見えた。私がいつか不幸になって、ひどい目にあって、今のこの惨めな自分よりひどい目にあってほしいと念じていた。それだけが母の希望のように見えた。その言葉が、唯一の母の捌け口のように見えた。

 喧嘩をすればお金の面で勝つのは絶対に母だ。私のものをマンションの廊下に手当たり次第放り投げて「出ていけ」と叫ばれたことも何度もある。
 何度も何度も数えきれないくらい逃げ出したかった。全てを呪った。でも不思議と、死にたいとは思わなかった。いつか見返してやる。いつか復讐してやると思って生きてきた。
 それに、ずっとそんな状態で今思えば洗脳状態だった私は、母の機嫌のいい日に雑談をして笑い、弟と三人で楽しく囲む夕食を愛していた。

 母は私で精神のバランスをとっていたんだと思う。妻が夫をなじって当たり散らすことで「無理解な夫に虐げられる不幸な私」に酔っているのと同じ。母にとって私は夫の代わりだったのだ。つまり、母なりに家族として愛情はあったのだ。無意識に利用してはいたが。その愛情のせいで私は母を嫌いになれなかった。これが当たり前と思って過ごしていた。

 学費が払えなくなって大学を中退し、二十一歳で家を出た私は、物理的に母と距離をとることで少しずつこの洗脳状態が解けていった。そして社会に出て色んな人と出会って数年経った頃にやっと理解した。いかにあの環境がおかしかったかを。


 結婚してからはしばらく母と大きなもめごとは無かったが、数年経った頃に「ばあちゃんがボケた」と連絡があった。

 祖母の具合が悪いと大騒ぎし、祖父が何度も救急車を呼んでいるらしい。祖母が眠れないからとずっと通っている病院で睡眠薬をもらっているが、その時に三十分近く先生と世間話をしているらしいということも聞いた。随分人に迷惑をかけているらしい。
 元々祖父母も母を育てただけあって強引で人の話は聞かず、何も納得はせず、我儘ばかり言っているような人達なので正直やっていることはさほど意外でもなかったが、祖父母だけで生活しているのが立ち行かなくなりそうだと聞いたら何も考えないわけにはいかない。
 幼い頃よく面倒を見てくれたのは祖父母だし、愛情も感じていた。母にどうするつもりか聞いたら「そのうち何とかなるでしょ」と言ってきた。私には相談してきたのに、である。

 この人達はこういうところがあるのだ。胸の奥にどよんと学生の頃の感覚が戻ってきた。
 とにかくどうにもなくなるまで放っておいて、場合によってはお金だけ出し、お金を出したことに恩を着せ、一番問題解決能力がありそうな奴があわよくば解決してくれればいいなと丸投げする。
 後のことは考えていないし責任を取る気もない。「ここまで悪化したのはお前が放っておいたせいだ」という文句とともに。
 実際母も「何故そこまでに何もしていないのか」と言った私に「じいちゃんとばあちゃんを捨てて出て行ったお前に言われる筋合いはない」と言っていた。「ばあちゃんやママ達が困っている時にお前は何をしてた?」と。遠方に嫁いだ娘が自分達の面倒を見ないのは薄情な娘のせいらしい。正義は自分にあると疑いもしない。
 だが仕方がない。正直、この人とこんな話をしていても埒が明かないのは嫌というほどわかっている。祖母をこのまま放置すれば命にかかわる危険もあるかもしれない。ひとまず一度札幌に帰ることにしたが、その間母に現状を聞き、祖父の負担がかなり大きそうなので祖母を病院か施設に入れた方がいいと結論付け、最寄りの病院を探した。
 幸運にも祖父母の生活しているエリアは高齢者が集まる地域なので、よさそうな病院もすぐに見つかった。

 札幌に着いたその足で母と合流して祖父母の家に向かい、半ば強引に連れ出してタクシーに乗せ、診察を受けた。
 診察の結果、祖母は軽度の認知症で、飲んでいる睡眠薬が合わないのか常に眠いのに夜は眠れないことが大きなストレスだったらしいので睡眠薬を変えて様子を見ることになった。
 老人ホームや認知症患者に対応している提携病院などについても教えてもらえた。祖母は久しぶりに会えた私に本当に嬉しそうな笑顔を見せた。確かに話はあまり通じないが、正直、もともとそんなものだったのでさほど気にはならない。ひとまず診察を受けられて嬉しそうだったからよかったと思った。
 正直、その間母は話を聞かない祖母にイライラしてウロウロする祖父にイライラしてお金を払っただけだった。必要事項はほとんど私が聞いたし、病院も私が選んだ。「恥ずかしい、恥ずかしい」と言って外面ばかり気にしている。いつもこうなのだ。
 「ひとまずこれで様子を見て。じいちゃんが大変で入院の必要がありそうならここに問い合わせてみたらいいよ」と資料を渡した私に、「お前が来てくれて良かった。私だったらあんなに話の通じない人達、きーってなっちゃって無理なんだよね」と母は言っていた。
 「話が通じない人はそれなりに扱わなきゃダメだよ」と言いながらも、母の精神年齢の幼さと問題解決能力の低さをまざまざと思い知った。私は、こんな人に育てられてきたのか。


 母を本格的に見限ることになったのは、私の妊娠中のことだ。

 妊娠中、私はほとんどの期間を切迫早産で安静に過ごした。合計三ヶ月入院もした。そのすべての期間二十四時間点滴で過ごし、子宮口を縛るシロッカー手術も二回受けた。

 そのうち一番長い入院期間となったきっかけは安定期に入った五月、札幌に帰省していた時に起きた。帰省とは言え実家に泊まるのは嫌だし、夫も一緒だったのでホテルに滞在していたが出血して受診したらそのまま救急搬送、即入院、シロッカー手術、二十四時間点滴絶対安静の日々がまた始まった。義母もかけつけてくれたが私はまた長時間座ることさえもできない日々が始まったことに絶望していた。

 仕事があったため夫は翌々日には帰り、一応孫と私の一大事ということは理解していた(と思っていた)母が身の回りの買い物などを担当した。スーツケースには三日分の荷物しか入れていなかったため、何もかも足りなかった。
 すぐに自宅から札幌の病院に送ってはもらえたが、とにかく入院翌々日からの部屋着もなかったため(私は敏感なので入院着では長く過ごせないし些細なことが入院中は大きなストレスになる)、母に買ってきてもらった。下着や調味料やスキンケアなども。そうしたら、こちらが頼んだ三倍くらいの量を買ってきた。
 下着も私の好みじゃない(完全に母の好み)柄のものを十組以上、いかにもなパジャマが五着。私はTシャツとラフなルームウェアを頼んだのに。
 「ほら見て、これ、授乳の時開けられるようになってるんだよ」とパジャマを見せて自慢気に言ってくる母に、欲しかったのはこれじゃないと思いつつもお礼を言って、夫が家からTシャツとルームウェアを送ってくれるのを待つことにした。
 他にも大量の調味料、おやつ、フルーツ、頼んでもないボトル型浄水器。動けない私は何とか指示して母にそれらをしまってもらった。

 夫と義母が帰り、二人がいる間は文句も言わずニコニコしながら世話を焼いてくれ、毎日病室に来てくれた母だが、一日二日経って、「出費がすごい」とぼやいてきた。
 そりゃそうだろう。頼んでないものまであんなに買えば。

「私が頼んだものだけ買ってきてくれればいいよ」
「コーラとか、本当重いんだけど」

 そう、その日は無性に飲みたくなってコーラを頼んでいた。でも正直、コーラの出費なんて大したことないじゃないかと言っていたらいつの間にか喧嘩になっていた。

「子供が生まれるのはおめでたいことだけど、こんなに大変ならやってられない。お前はずっと寝てなくちゃいけなくて、まあ、大変だと思うけど一生に一回くらいいいんじゃない?私なんて毎日毎日忙しくて、お前の世話までしなきゃいけなくて、私こそ一週間くらい入院したい」

 と母は言った。バカなのか?何もかもひとつもわかっていない。
 このままでは子供が流れてしまうからこんなに必死に安静にしているのに。安静生活がどれだけ辛いか、自分の命じゃなくて子供の命がすぐに失われてしまうかもしれない状況で毎日毎日恐る恐る生活しているのがどれだけ辛いか。そのために夫も、義母も、病院の先生も、看護師さんも、何より私も、こんなに頑張っているのに。
 言葉を失っていた私を母は特に気にも留めず「まあ、〇〇くん(夫)にそのうち払ってもらうしかないけど」と言っていた。これが譲歩だと思っているのが恐ろしい。

「バチが当たったんじゃないの?お前は勝手に結婚して勝手に遠くへ行って、じいちゃんとばあちゃんが大変な時も一回来たきりで、弟が大変だったことも知らなかったでしょ?うち、お金がなくて大変だったんだよ。お前がいないから平和だったけど。墓参りにも二年に一回くらいしか来ないで。まあ、うちのことをほったらかしだったから、バチが当たったんだよ」

 「お前はいつかひどい目に合う」
 母の言葉が頭の中で響いたみたいだった。

 母は嬉しそうだった。口角が上がるのを抑えられていない。ああ、母の願いがやっと叶ったのかと、他人事みたいに思った。

 うちには墓参りの習慣がなかった。どこに墓があるのか、誰が入っているのかも知らなかった。結婚してから夫がわざわざ札幌まで来て運転してくれて札幌から車で一時間くらいの場所に家族で墓参りに行くのが毎年の恒例行事になった。
 ああ、確かに去年は墓参りに行ってなかったなぁなんて思いながら、私はものすごく冷静だった。

「ママが行けばよかったじゃん」
「行けないよあんな不便なところ」
「バスがあったじゃん」
「一時間に一本しかないんだよ?」
「仕方ないじゃん、車ないんだから」
「はあ?あんな辺鄙な駅に降りて、一時間もバス待って行けっていうの?あんな広いところで一人で墓参りしろっていうの?そんなことどれだけ大変か、お前、やってごらん!!」

 母は病室で怒鳴った。

「そんなの普通だよ」
「わかったような口きくな」
「普通だって。うちは親戚もいないしママは友達もいないし職場の人とそこまで深い話をしないから知らないのかもしれないけど、どこの家もそうだよ。嫁ぎ先のお寺も本州にあるし、電車で何時間もかけた後にバスに乗って向かうとか、一人で暑い中でも歩いて何とかやるのが普通だよ。地域によるけど何日かやらなきゃいけないこともあるし、人を呼ばなきゃいけなかったりするし、そうなると準備も片付けも必要だよ。たった一日五、六時間で終わる墓参りなんて楽だよ」

 私は淡々と話した。母は思いもかけない私の反撃に二の句が継げないようだった。

「お前だってやったことないでしょ」
「そうだね、一人ではないね」
「偉そうに」
「でもお手伝いはしてるし毎年夫の本家には行ってるよ」
「所詮お手伝いでしょ」
「ママは世間の人の苦労を何も知らないんだって。だから自分ばっかり辛いって言うんだよ」
 母は目をギラギラさせていた。「バカにされている」と感じると出る自己防衛モードの時の顔だった。こういう時はもうこっちの話なんて届きゃしない。
「バカにしてるんだね」
「そういう話じゃない」
「いいんだ、職場の人にもお前のこと言った。バカにされてるねって言われたよ」
「そう」
「もういいや、お前のこと、お義母さんに言う。こうしてバカにされましたって言うわ」
「言えばいいよ」
「本気だよ」
「言えばいい。お義母さんと私は信頼関係があるし、あの人は間違ってることは間違ってるって言うからね。お義母さんはママが間違ってるって言うよ、多分。」

 母は当てが外れたような顔をしていた。「お義母さんに言わないでー」と私が泣きつくとでも思っていたんだろうか。愚かだ。本当に、恐ろしく幼稚で愚かだ。
 私は気付いた。母は、本当に他の人の苦しみなんて何も知らないのではないかということに。

 皆も不便な思いをして墓参りなんてするものだということや、親戚付き合いの面倒くささや、数年に何度かある法事のことなど、何も身近に感じることがないまま大人になり、大人になってからも虚勢を張り続け、人に心を開かない性格のため友達はいなかった。
 勿論それだけではない。赤ちゃんを抱えた母の悩み、働きながら子育てをする大変さ、シングルマザーの熾烈な日々、経済的などうしようもなさ…。SNSもない時代、母はきっと、誰にも相談できず、誰の辛さも想像できず、自分だけが辛いと思うしかなかったとしたら。

 他人の辛さを具体的に見て、聞いて、共有することでたとえ自分がその人より辛くても自分の辛さは軽くなる。自分より大変な人のものであれば尚更。
 自分の子が寝ない寝ないと苦しんでいても、もっと寝ない子の話をきけば少し慰められたような気がするあの感じ。一人じゃないと思えるあの感じ。あんなものを、母が全く誰とも共有せずに生きてきたとしたら。
 虚勢以外何も持っていないとしたら。母の頭の悪さとすぐにキレる理由が、納得できた瞬間だった。

 この話を夫と義母にすると二人とも激怒していた。夫は手切れ金を払うとまで言った。緊急搬送から四日目のことだった。
 それから三日後、再び出血し、再度手術が必要になった。より安静の指示は厳しくなり、辛い日々はほぼ二か月続いた。その間札幌の友達が面会に来てくれ、義理の妹さんが近所に住んでいたので洗濯などをかって出てくれた。ありがたかった。皆のおかげでなんとか退院できた。


 母は二度と来ることはなかった。退院の前日、「ママからiPad取り返せって言われた」と言って弟が来た。
 なんとも思わなかった。またしばらく会えなくなる弟と雑談した。弟は車を買いたくてお金を貯めているらしい。
 遊びまわっていた弟が地に足が付いたことを言うようになって安心した。iPadを返却し、迎えに来てくれた夫と看護師さんたちと先生と別れを惜しみながら退院した。

 それ以来母とは息子が産まれた後一度病院で会わせたきり会っていない。もうできるだけ関わりたくないというのが本音だ。
 親不孝と言われるかも知れないが、私は札幌に帰りたいと思うことはあっても、実家に帰りたいと思ったことはない。
 私はあの時母を本当の意味で諦められたんだと思う。離れてからも随分長く付き纏い、諦められなかった母を理解し、もうどうにもできないことを悟った。

 母も彼女なりに私を愛しているんだと思う。でも、その愛は私が欲しいものじゃない。だから随分長いこと諦められなかった。でも、欲しくない形の愛は拒否していいと思う。それが親からのものであっても。それくらいの自由は生まれながらにあるはずだ。
 そう、あと大切なこと。こんな風に母に苦しめられてきた私がきちんと子供を育てられるのか、本当に不安だった。不幸な子にしてしまうくらいなら親にならない方がいいと思っていた。正しく愛せるか不安でたまらなかった。
 でも、大丈夫だった。息子が世界一愛おしいし、世界一可愛いし、何があっても守りたい。彼が確かな自己肯定感で世界を豊かに渡れるように今毎日毎日愛していると抱きしめているのは間違っていない確信がある。
 勿論できていないこともいっぱいある。テレビを見せすぎてしまったり、なかなか早起きできなかったり、寝かしつけにへばってしまったり、家事が忙しくて遊べなかったりする。でも、想像以上にできている。満面の笑みで「だいしゅき」と抱きついてくる息子がその答えだと思っている。

 これを書いて「同情して欲しいのか」という意見があるかもしれない。それははっきり言って図星だ。
 私は自分も、他人も、不幸な目にあったならその分報われて欲しいと思う。どれだけ辛い時があったとしても、戦えなかった時があったとしても、あとから「あの時があったから」と少しは取り返して欲しいと思う。不幸に感謝なんかできない。でも、少しでも報われて欲しいと思う。
 私にとって「報われる」とは、得意な文章を書くことでできるだけ多くの人に届き、痛みや苦しみを共有できたらということだ。
 わかりあえるなんて言えない。人の痛みはその人にしかわからない。でも肯定し合うことはできると思う。痛かったんだねと認めることはできる。そして、それで充分だと思う。
 勿論私以上に毒親にひどい目にあわされている人がいることはわかっている。正直、私は虐待と言われるほどではない。虐待を受けてきた人の精神的な傷とは比べ物にならないだろう。でも、近いものを分かち合うことはできる。私の方が傷が浅いから、傷が深いあなたとは話し合えないと遠慮するのではなく、お互い辛かった、でも今は前を向いて自分は自分が思う以上に能力があるし、将来は可能性に満ちている話をしたい。
 親に大きく左右されるのはせいぜい二十年だ。でもその二十年がどれだけ大きいか。私は知っている。でも、取り返せるのも学び直せるのも身をもって知っている。信頼する人に出会って、思い切って信頼して、学んで、愛して、自分を愛せるようになってほしい。私のように。
 私達は、抑えられていたいた分の力がある。それを信じてほしい。「私は違う」と思わないでほしい。ある。必ず。それは親に否定され続けたものかも知れないし、親が唯一認めてくれたものかも知れない。自分の好きなもの、得意なものを恐れず掴んでほしい。愛を恐れず受け取ってほしい。その日はもしかしたら少し遠いかもしれない。でも、誇りを持って正しく生きれば必ず来る。
 これを読んでくれた人みんなにそれぞれの幸せがありますように。
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