おばあちゃんの日記

記事
コラム
前回は自分の知らないところで、自分を大切に思ってくれる人がい
るというエピソードを記事にしました。
今回も自分の外側に目を向けると新しい発見や癒しが起きるというお話を書いていこうと思います。


私たち人は罪悪感という感情を抱くことがあります。
自分がしたことで誰かを困らせた、誰かに迷惑を掛けた、誰かを傷つけたなど
私はダメな人…という気持ちを強く感じている時

こんな自分が誰かに愛されているわけがないと感じてしまう事があります。
罪悪感という感情を強くを持ち続けていると、
「あなたは悪くないよ、私はあなたを愛しているよ」という人が現れたとしても、その人の想いは受け取れなくなってしまいます。

そして自分が許されることを自ら拒絶して
【誰にも愛されていない私】を証明しようとしてしまったりするのです。


私は長い間引きこもりで学校にも行けず、外に出ることも出来ず
親とのコミュニケーションも取れないような状態が数年にわたり続いていました。
自分の罪悪感と向き合うのが怖くて逃げてばかりで
そうするといつの間にか人との距離が出来てしまい
自分のやりたいことや生きる意味もよくわからないような毎日で
いつしか心から笑えなくなっている自分がいました。


ですがカウンセリングを受ける中で罪悪感の苦しみから抜け出すため
には、自分の幸せを願ってくれている人の想いに目を向けてみる事が
大切なんだと学びました。

どうせ誰も私の事なんか…って思ってしまう事はないでしょうか?
傷つき悩み、誰とも関わらないほうがいいやって一人で生きていこうと思う事はありませんか?

寂しい世界に居続けるのは傷つくことのない安全な世界かもしれません、
ですがそれは本当の幸せなのでしょうか


私は寂しい世界に居続けるのはとても苦しかったです。
あるときもういやだと思い繋がりを求めて動き始めました
ほんのちょっとしたことで、私は愛されていないという信念が崩れ
去り、めっちゃ愛されてるやんけー!と思えるようになりました。
今回はそんなお話です。



六月、私は山伏修行の聖地ともいえる大峰山へ行きました。
山伏の友人とその仲間御一行さんと一緒に山上ヶ岳を登頂し
山頂の大峯山寺にお参りしてから洞川温泉の宿に戻り温泉に浸かって宴会をする。
食事の後も夜中まで飲んでしゃべって、次の日は二日酔い気味で
宿のすぐ近くにある龍泉寺というお寺で氷のように冷たい水に打たれ滝行と水行をするのです。


修行という辛さの後に温泉や宴会という気持ちよさや楽しさを味わえるので
普段より何倍も幸せを感じられて癖になってしまいました。

山上ヶ岳は昨年も一度上った山なのですが前回はコロナの影響もあり行場と呼ばれる西の覗き、鈴掛岩は閉鎖され体験することが出来ず、一年越しにやっと体験することができたのです。

どちらもとても危険な行為をするもので落ちたら死んでしまう命の危険を感じながら、私はこの場でいったん死んで生まれ変わる!
これからは生きていることに感謝し、親を大切にする!仕事をまじめにする!
誠実に生きていく!などの誓いを立てます。

裏行場と呼ばれるところはもっと危険で命綱もない状態で崖の上にせり出した岩にへばりつきながら渡ります…
死がすぐ近くまで迫っているのを意識するような体験ができて
人がやっているのを見ているだけで足が震えます…


でもね、面白いもので、この修行を終えて帰ってくると本当に生きててよかったぁと思うのです。
普段自分が感じている将来への不安とか人間関係の悩みなどとは別次元の強烈な恐怖を感じるので、いつも感じていた悩みや不安がまぁこれで死ぬ事はないか、と思えるようになったりします(笑)

そんな経験をしたもんで、帰ってきてからは感謝する事が少しずつ増えたりして、自分でも変わったなぁと思うのは家族はもちろん、先祖も大切にしないといけないぁと思うようになった事でした。


それまではまったく興味はなかったのですが
祖父母のお墓参りをしたり
自分の家系の事が気になり父方母方の戸籍謄本を遡れるだけ取り寄せて家系図を作ったりして
こんなに親戚がいるのか!とか、この人10人も子供生んでる!とか
この人は坂本龍馬と同い年!など新しい発見と驚きがあり楽しい日々を過ごしていました。

家系図を見ていると自分は本当に沢山の命の繋がりの中で生まれる事が出来たんだなぁと感じたりもするのです
家系のご先祖様や、国を守るために戦争で亡くなった方々への感謝などがよりリアリティをもって感じるようになっていました。


八月中旬になり、お盆も近づいてきた時の事です


実家に帰ってみると家には誰もおらず
久しぶりに帰ったしお線香だけでもと思って仏壇に向かうと埃が気になってしまう…
せっかくだし掃除もするかぁと思って掃除をしていると
仏壇の引き出しから祖父の時計や、誰ともわからないがおそらく祖父か祖母の家族の人なんだろうという写真、祖父母の大切にしていたものがいくつか出てきたのです。


その中にノートが一冊入っていました


開いて読んでみるとどうやら祖母が亡くなる前の入院中に使っていたもののようでした。

おばあちゃんのノートを開いて読んでいると

〇月〇日
〇〇さんがお見舞いに来てくれた
果物を頂いてお話をした、久しぶりに話せて嬉しかった


また別の日には
明日は手術の説明がある、不安だったが娘が一緒に居てくれて手続きなどやってくれた、娘はとても頼もしく感謝している
ありがとう


またある日には
入院することになりみんなに迷惑をかけてしまい申しわけない
家や職場は大丈夫なのか心配になる、早く退院したい
など当時の気持ちなども書かれているのです。


その中でこんなことが書かれているのを見つけました


「私は孫たちのためにもっと働きたい」


掃除の傍ら、そのノートを読み
おばあちゃんは本当に最後の最後まで自分たち孫の事を大切に思ってくれていたんだなと感じて涙が出ました。

まだ小さかった頃、手を引いて買い物に連れて行ってくれたり
中耳炎だった私のために毎日飲みやすいように甘くしたのみ薬を作ってくれたり
お見舞いに行くたびに笑顔で話してくれてお小遣いだよってお金をくれるおばあちゃん

一緒に過ごしていた時の思い出が一つ二つと蘇り
自分には優しかったおばちゃんが居た事、
とても大事に育ててもらっていた事を思い出しました

自分は愛されてない、この家に自分の居場所はない、と思っていた時期もありましたがノートを読みながら子供時代の事を思い返すと自分はちゃんと愛されてたよなぁ…そう思えたのです。

これも繋がりを取り戻すという事なんだなぁと思います。
相手がたとえ亡くなっていても、その人がどんな想いで生きていたのか、
どのように愛しそうとしてくれたのかを想像することは出来ますよね。


私は愛される存在ではないと思っているときは
愛されてるよと言われても、そんなわけないと思ってしまいますし
誰かに愛されていると考えるのも嫌になってしまいます。

実際に愛されている事を感じてしまいそうになると怖くて逃げ出したくもなります。

それは、心の中にある罪悪感が私は愛されるに相応しくない
愛されていいわけがないと自分を愛から遠ざけているのかもしれません

でもこれまでの思い込みや信念をいったん横に置いて
もし私が愛されていたとしたら
だれがどんな風に愛してくれていたんだろう?って考えてみてほしいのです。
それは家族かもしれないし
友人かもしれない
近所の人や学校の先生かもしれないし
SNSで知り合った顔も知らない人かもしれない
寂しい世界にずっと居続け苦しみ続けるより
人の愛を感じる繋がりや安心感のある世界を感じてみて欲しいのです
私が残念だなぁと後悔している事が一つあるとしたら
おばあちゃんへありがとうと伝えられない事でした
話せるうちにもっと沢山話せばよかった、と思います

でも、だからこそ今生きているうちに伝える事の大切さも教えてもらった気がします。
気持ちを伝えあえる、ただそれだけでも凄い事なんだぁって

話すことによって今まで自分が知らなかった相手の想いに気が付けたり
心が通じ合ったりする事がある
素直な気持ちで話すって恥ずかしいですし
この気持ちちゃんと届くかなとか
笑われたりしないかなって不安になったりすることもあると思いますが
後になって後悔しないためにも今から少しずつやりやすい人からチャレンジしてみませんか


素直な気持ちや想いを伝え合い感じあえた時に癒しという恩恵を受け取れるのだと思います。
孤独な世界で生きるのはもう辞めたいと思うのであれば自分の事を
大切にしてくれた人は誰なのか思い返してみてくださいね。

もし大切な人がふさぎこんで閉まった時、今すぐには想いや言葉を受け取ってくれなくても伝え続ける事を諦めないであげてください。
愛してる、大切に想っている、その気持ちがいつか届くと信じて
伝え続ける事でその方もいつかの私のように愛を受け取れる日が来ると思うのです。

愛川 友悠

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