【感想】『借りぐらしのアリエッティ』と「小人の冒険シリーズ」

記事
エンタメ・趣味

ジブリ映画『借りぐらしのアリエッティ』

「ぼくはあの年の夏、母の育った古い屋敷で一週間だけ過ごした。」
 物語は、少年のモノローグから始まる。
 美しい宝石箱を開けた時のような音楽が鳴り、なるほど、その体験は少年にとって宝物なのだろうと想像ができる。
 アリエッティは可愛い。
 小さく、ほっそりとしていて、それでいて賢そうな、勇敢な顔をしている。それが素早く動き回り、要領よくシソを摘み取って、床下へと続く格子窓に消える。
 『借りぐらしのアリエッティ』、スタジオジブリによる2010年の作品である。
 少年(翔)は、初めて小人(アリエッティ)を見た時に、守ってあげたいと思ったのだという。心臓に病を抱えていて、静かに本を読み、猫を撫でるだけの彼が。一体、何から小人たちを守りたかったというのだろうか。
 アリエッティは言う。あなたのせいで自分たちの暮らしは滅茶苦茶になった、と。
 小人たちには小人たちの暮らしがある。小さくて、慎ましやかで、いじらしい暮らしが。こっそりと拾い集めてきた材料で、コツコツと作り上げてきたのであろう手作りの、創意工夫に満ちた暮らしが。それは、大きい我々「人間」からすると、物理的に儚く、脆い暮らしである。
 実際、彼らの生活空間は翔によって暴かれ、良心からとは言え壁をごっそりむしられた。そして家政婦によって家族のメンバーを捕らえられる。
 少年は共存を望んでいるが、小人たちの生活はミニマムであるが故に(少なくとも、少年が守りたいと思う程度には)脆く、人間とは共存しえない。共存はできないが、物語は「心を通わすことはできる」と伝えてくる。ありがとう、さようなら。翔とアリエッティは言葉を交わし、互いを思いやりながら終幕を迎える。美しく、優しい世界。
 『借りぐらしのアリエッティ』は、小人たちの話であると同時に、冒頭にあった通り、少年のひと夏の思い出でもある。
 翔が小人たちの暮らしを自分の世界の隙間に発見し、小人の世界に入り込んでいくという構図であり、物語も、アリエッティたちの小さな生活を見せる形で、小人目線で展開する。
 翔とアリエッティの初めての対話は、姿を見せずに行われる。窓辺の小さな影は、幻の顕現であり、翔にとってはまだ「生活者」ではない。
 2回目の対話は、アリエッティの目線で行われる。翔が庭に寝転んでいるところへ、アリエッティが姿を現すシーンだ。この対話を通じて、翔は小人たちの生を実感する。作り物のように小さく可愛らしい小人たちを、自分と同じように生きているものとして、作り物ではない事実として認識する。アリエッティは窓辺に現れる来訪者となる。
 しかし、共存の夢は互いを、侵しがたい尊い生活者として認識することでついえてしまう。お互いを尊重し合うためには、人間側からの不干渉は必要不可欠なのだ。
 翔は小人たちのリアリティを獲得することで、没入していった小人の世界から、夜明けとともに帰ってくる。ラストの、小人たちを送り出すシーンは、翔の目線に高さが合わされている。小人たちの思い出を胸に終い、宝石箱を閉じることで、物語は完成するのだ。

小人の冒険シリーズとの比較

 アニメの原作となった『床下の小人たち』は、アニメのような閉じた構造ではない。語り部が複数存在する(目撃者だけでも、少年、ソフィ、ドライヴァ、トム、とほとんどの主要キャラクターが該当する。2冊目以降も含めると、さらに多くなる。)ことで物語は繰り返し再生され、また一番の語り部であるメイおばさんによれば、終わりに見えてもそれは語り部が口を閉ざすだけで、物語は終わらないのである。このことはシリーズ中で何度か繰り返される。
 小人シリーズのリリース自体も、『床下の小人たち』『野に出た小人たち』『川をくだる小人たち』『空をとぶ小人たち』と、4冊で一度終わりを迎え、その後、20年以上経ってから最終巻の『小人たちの新しい家』が出版されている。また、どの巻も完結的な終わり方はせず、最終巻でさえも物語の余白を感じさせる最後になっている。
 語り部が口を開けば、物語はいつでも再開されるのだ。(作者のメアリー・ノートンは1992年に亡くなっているが、それはおそらく大きな問題ではない。)
 一方、アニメの方は完結した物語であるが、ラストシーンでアリエッティが翔に髪留めのクリップを残すことで、物語はいつでも再生可能になる。同じジブリシリーズの『となりのトトロ』におけるお土産のどんぐりであり、『千と千尋の神隠し』における千尋の髪留めでもある。クリップが思い出と現実をつなぎ、思い出の保持者の中でだけ、繰り返し語られるのだ。

小人たちの在り方から見る現代への問題提議

 アニメと小説では全く異なる構造を持つが、小人たちの在り方は概ね同様である。
 人間に見られてはいけない、壊してはいけない、もらいすぎてはいけない、という掟を持ち、誇りを持っている。彼らの生活はあくまでも人間から「借りる」のであり、盗むのではない。そしてこの小人たちは、創意工夫の生活者であり、妖精のように不可思議な魔法は持たない。
 どちらの作品にも、小人に対して好意的な人間が現れるが、どちらの作品も、人間と小人の共存は成立しえず、必ず破綻する。
 小人と人間が共存できない理由は、端的に言ってしまえばハル(家政婦)のような「小人を捕らえる(生活を脅かす)」存在がいるからだろう。小説にも同様に、ドライヴァ、マイルド・アイ、プラター夫妻、と小人を捕らえようとする者が登場する。
 『床下の小人たち』では、ふたつの一時的共存が見られる。ひとつは、ソフィ大おばとポッド(アリエッティの父)、もうひとつは、少年とアリエッティである。
 前者はお酒を介しての繋がりであり、ソフィは小人を、飲酒が原因で現れる幻だと認識している。会話も、ソフィからポッドへ向けてのほとんど一方的なものであり、結局のところ、ソフィは小人を生活者として認めてはいないし、小人たちもソフィとの関係を「見られた」うちにカウントしていない。
 後者は、アニメの主軸でもある、人間と小人の対等な関係である。
 小説では少年は9才と幼く、文字も読めない。アリエッティは14才で文字も読めるし口も達者である。アリエッティが優位性を持ち、このことの為に両者は対等になれる。(少年は初めてアリエッティを見た時、かみつくのではないかと怯えて攻撃しようとした。ポッドを目撃した時はそっと手助けをしたくらいなのに、なぜかアリエッティについてはちょっと警戒している。)
 アニメにおける少年(翔)は、年齢ももう少し高く12才、本も読み、知性がある。アリエッティとほとんど変わらないスペックであるが、翔が家族とのつながりが薄く、また病気をかかえていること、アリエッティに温かい家庭があり、かつ(冒頭のシーンに見られるような)聡明さと勇敢さを備え付けることで、関係はようやく対等なものとなる。
 対等な関係ではあるが、それは絶対的なものではない。両者の間には、圧倒的な体格差があるからだ。立場は対等であっても、翔が小人たちの家を破壊したように、力の差は歴然としている。つまり、アリエッティがいかなるスペックであったとしても、対等でいられるのは、少年側のある種の礼儀のためである。少年がアリエッティをひとりの生き物として尊重することで、初めて対等な関係は維持されるのだ。
 そしてそれは、少年が「与えよう」「守ろう」とすることで、簡単にバランスを崩してしまう。少年が彼らの生活に介入することで、小人たちはハルやドライヴァのような捕獲者に見つかりやすくもなる。(事実、発見される。)
 捕獲者たちの存在は、物語においては事件性であり、また人間の貪欲さの現れである。小人たちの生活が物語である以上、彼らの存在は欠かすことは出来ないし、人間が一通りの生き物ではない限り、小人との共存は破綻するのである。
 共存できないもうひとつの理由は、人間が好意的に与えると、飼い主とペットのような力関係を小人側が敏感に察知してしまうからだろう。小人たちは創意工夫の生活に誇りを持っている。人間のような暮らしに憧れる一方で、人間臭い作り物は嫌ってみせる。また、覗き見されることを大いに嫌い、小人同士も、住処を聞かないのが礼儀、など、原則的に深く干渉し合わない。(これは隠れ住むもの、寄生するもののモラルとも言えよう。だが、親戚は例外であり、またスピラー、ピーグリーンの二人の小人協力者も結果的に深く交流する仲となった。深く干渉しないという原則はあくまでも付き合いの入り口でしかなく、小人たちも本当は複数形でいたいのだ。)
 人間の良心とも言えるミス・メンチスとの交流が途絶えることになったのは、小人たちの誇り故、という部分もある。(ミス・メンチスは、小人を見ないようにしながら観察する、さりげなく物資サポートをするなど、シリーズ中で一番うまく小人たちと付き合ったと言える。アリエッティが両親に、その交流を明かさなかったら、もしかすると長期的な関係を築けたかもしれない。捕獲者であるプラタ―夫妻のいないところ、つまり、人間の良心だけの部分であったら、きっとそうであろう。)
 小人たちの存在は、人間の貪欲さと良心を浮き彫りにする。小人のもつ危うさは、人間のそれでもあるのだ。
 また、小人たちの慎ましやかな生活は、古き良き人間の暮らしでもある。「借りてくる」ことは小人の専売特許ではなく、言うなれば、本来人間も、自然界から様々なものを「借りてくる」ことで生活していたのではないだろうか。そして今、人間は自然界から借り過ぎてはいないだろうか。原作小説はそのように投げかけてくる。
 最終巻『小人たちの新しい家』を翻訳した猪熊葉子によれば、小人たちの「人間文明への過度の依存が種族の破滅につながりかねない」というスタンスは、そのまま現代の人間への問題提議でもあるり、またメアリー・ノートンが最終巻を出版したのも、「人間世界の状況が日々いささかの楽観も許さぬものになってきていることへの危機感」からではないかという。
 そしてジブリは問う。「物質的に豊かになったけれど、心が貧しくなってしまった人間」と「知恵と工夫に満ちて」いる「貧しくても心豊かな」小人たちと、どちらが滅びゆく種族なのかと。
 メアリー・ノートンが語り継いだ物語は、優れた童話であると同時に、慢心する人々への警鐘でもあるのだ。

※※※※※
ここまで読んでいただきありがとうございます。
以下は資料の情報とコメントになります。
大した情報は含まれませんが、
もし本文を気に入ってくださったら、
ご購入いただけると嬉しいです。
※※※※※
この続きは購入すると読めるようになります。
残り:2,355文字
【感想】『借りぐらしのアリエッティ』... 記事
エンタメ・趣味
500円
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す