ちっぽけという自覚の大切さ

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自分がちっぽけな人間だと、些細な存在なんだと感じたことはありますか?
要するに「謙虚である」意識がありますかということです。

そういう意識は本当に大切です。
それが日本人の美徳の支えである一つと言えるのではないでしょうか。

今の時代、インターネットの社会ですが情報リテラシー(目的に応じて情報を活用する能力)による格差も広がっています。

例えば、卵の料理の仕方が分からない。でもインターネットで調べ方もわからないし、良い情報なのか、いい加減な情報なのかも分からない。

そういう場合、知識がある人はその人に教えてあげることが出来ます。しかし、知識があるからといって偉そうな態度では教えてもらう人はいい気持ちはしませんよね。

情報社会だからと限らず、知識があるから・優れているからといってプライドは無意識のうちにどんどん育っていきます。

いつのまにか「そんなこともしらないのか?」という言葉が出る人もいるでしょう。無意識のうちに態度に出ることだってあります。

実際にやっている人は気づかないのです。謙虚さがなくなり、周りが離れていって初めて、疑問が生まれ、人のせいにするか自分の態度を改めることを決意します。

必要以上にプライドが高い = 感謝ができない

感謝するから人は優しくも謙虚さもあり、もっと他人を思いやる気持ちが出てきます。

必要以上にプライドが高ければ人に冷たく、他人に対する気遣いがなく、自分の立場を守るか向上させることに意識が向きます。

結局のところ、無駄に大きいプライドの鼻を折るためには、自分がいかにちっぽけな存在なのかを日々理解しなければいけません。

必ずと言ってもいいほど、上には上がいます。

まぁ実のところ、優越なんて関係ありませんよね。作り上げたルールの中では上下関係があっても、人間同士では本来は上下関係はありません。

よく聞く、人間はみんな平等です。

傲慢な姿勢は身を滅ぼす

現在知らず知らずのうちに自分が傲慢であるか顧みてもいいかもしれません。

身内に、他人に感謝ができているのか。

感謝が出来ていないなら、ではどこにその傲慢さが隠れているのか少し考える時間があってもいいかもしれません。

自分がちっぽけである事を理解していれば、人に悪く思われるような行動をとることは激減するでしょう。

もちろんですが、ちっぽけである事と自信が無いというのは全く同意語ではありません。

自信を卑下することとちっぽけな存在であることの理解は同意語ではありません。

卑下は「本当に自分が劣っていると感じていない状況」で使われます。それは結局のところ自身の傲慢さはなくなっていないのです。

また、必要以上に自分を蔑んで卑屈になることとも違います。

それは、自信を持つこととプライドが高い事を同意語と思っているのと同じです。

傲慢であること、卑屈であること、どちらの意味にも

・他人を見下す
・自分を見下す

見下すという意味があります。見下す行為が傲慢だというのです。

難しい表現になってしまいましたが、
謙虚であること、日常的に人に気遣いが出来る事って難しいんですね。
だからこそ、そういう人は尊く、凄い人です。

そういう方が本当の意味で人に上に立つ方(人々を導く方)ですよね。

自分本位のままでは難しいことだって多々あります。

今のこの場で自覚しても人間は忘れる生き物です。反省しても繰り返すことが多々あります。

だからこそ、一日毎に傲慢ではないか、セルフチェックは大切です。

誰しも傲慢な部分は少なからずあるとおもいます。わたしもそういう部分が出ないように気をつけていきます。

それでは今回はこれにて終わります。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

次回は龍体文字の続きを書こうとおもいます。






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