不登校、イジメ 過疎地から国際学校へ ⑵

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だいぶ暖かくなり春の兆しが見えてきましたが、北海道はまだまだ寒いです。

フルートとギターの夫婦音楽ユニット「ホラネロ」の旦那の方です。


「ヤバイ奴、ヤバイ環境からは逃げる」

これは僕と息子達との会話の中で良く出てくる言葉です。

ここで言う「ヤバイ」は自分にとってダメージがあるという意味。
「逃げる」と言うとマイナスなイメージですが、言い換えれば「精神的にも物理的にも距離を取って自分を守りましょう」ということです。

なぜなら

他人を変える事は出来ない。何か問題が起きた時は自分を変化させてより良い方向へと進んでいこう。

という考えを常に持っているからです。

改めて振り返ると、北海道に移住して10年目、この言葉通りに行動した事が多いことに気がつきました。

僕達夫婦のケース

2012年の正月に北海道へ移住する以前は東京で音楽を生業とし、僕は作編曲家、ギタリストとして宇多田ヒカルさんやTHE ALFEE、大黒摩季さんなど様々なアーティストの方々とお仕事をさせて頂いておりました。

妻はフルーティストで東京藝術大学大学院を卒業後、オーケストラや室内楽、レコーディングで演奏をしたり楽器を教える事を仕事にしていました。

ホラネロ.jpeg


結婚後、東京の下町、浅草が近い蔵前という街に住み、二人の息子に恵まれ仲良く暮らしていました。

町内会で餅をついたり、年末にはご近所さんと一緒に『火の用心〜!』と声を上げながら夜警をしたり、祭りで神輿をかついだりと古き良き日本のコミュニティが機能している本当に居心地の良い、住みやすい街でした。

では、なぜそこから離れることを決めたのか?

きっかけは3.11
2011年の東日本大震災でした。

当時はマンションの10階に住んでおり、すごい揺れでした。
洋式トイレの便器の水が揺れで溢れ、食器が全部飛び出し、縦の物が横に、横が縦になるぐらい動き、床一面に夕食用のカレーが鍋からぶちまけられました。
たまたま一人、家で仕事をしていた僕は足が震えるぐらい恐怖を感じました。

さらに、地震の爪痕は目に見えない形で残ることになりました。

良く子供達と遊びに行っていた公園などで、ホットスポット、いわゆる他の場所より放射性物質による汚染が多い地域が見つかった、とメディアで報じられるようになりました。

新聞では、近隣の中学校で放射性セシウムに汚染された可能性のある牛肉が給食で使われた、という記事もありました。

大人よりは子供が放射性物質の影響を受けやすいとの報道があった為、とても不安になりました。当時子供達はまだ6歳と4歳でした。

前例が無く、わからない事ほど恐怖を煽られるものです。

専門家と称する学者の人たちの間でも放射性物質の影響は「大丈夫!」と「気をつけましょう」で意見が別れていましたし、まして知識のない自分たちにとっては全くわからないのが正直なところでした。

ただ、子供は自分で環境を選ぶ事が出来ないので「何もなければそれはそれで良いわけだし、最悪の事態を想定して行動しよう」という事だけは夫婦で決めました。

例えば学校給食に関して。
学校や保育園に食材のベクレル検査をお願いして人の仕事を増やすような事はしたくなかったので、北海道へ移住するまでの9ヶ月間、毎日給食と同じメニューの弁当を作り学校に届けていました。僕らが過剰に反応しているだけかもしれませんし、他の子供たちに不快な思いをさせないように理由は「アレルギーを持っているため」という事にしてもらいました。

相手に要求するだけ、自分が不安に思っている事を伝えるだけ、ではなく自分たちで出来る事に取り組んだ結果、小学校や保育園の先生方からも理解を得られ、非常に協力的で温かく接していただきました。

雨水が流れる側溝や雨どい、苔が生えている所は放射性物質が溜まりやすいとテレビの情報もあったので、休みの日に必ず遊びに行っていた公園にも行かなくなり、外遊びも減り、DVDを見たり本を読んだりと、体を使った遊びをする機会が減っていきました。

ただ恐れてじっとしているだけでは結論が出ないので、子供達の尿検査をした所、長男の尿からごく微量の福島原発事故由来のセシウムが検出されました。これが決定打となり北海道への移住を決めました。

作編曲の仕事はオンラインで、演奏の仕事は北海道から通って続けよう、と。

お世話になった方々にご挨拶を済ませ、子供達を安心して育てられる環境を求めて妻の実家のある北海道に引越したのが2012年の正月でした。

そんなわけで僕や息子達は、新天地で妻の両親以外は全く知り合いがいない中、北海道のオホーツク地方での生活が始まり長男は小学校2年、次男は保育園の年長に編入しました。

新しい環境で不安もありましたが、幸い妻の両親が地域との結びつきを助けてくれたおかげで、ご近所の方々からも温かく受け入れてもらう事が出来ました。

そして思う存分、安心して外で遊べる環境を手に入れたのでした。

「ヤバイ奴、ヤバイ環境からは逃げる」
そんなこと出来ない。我慢しなくちゃ。と、諦めない。
それが僕らの考え方です。

次回は長男のケースを書いてみたいと思います。


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