虐待環境で育った私が今思うこと

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こんばんは、玲那です。ココナラで初めて私という存在を知った方のために、簡単(にしたつもり)な育成歴を書いておこうと思います。なるべくポップに書こうと思いますが、重たくなったらごめんなさい。


■元No.1ホステス&元オーナーママです^^

プロフィールやサービスメニューにも書いていますが、元No.1ホステス&元オーナーママです。

No.1になるまで8年もかかりました。その間は底辺の売れないホステスどころか、かなりの問題児でした。接客中に椅子蹴っ飛ばして帰ったこともあるし、壁殴って右手が血だらけになったこともあるし。あはははは~。

人生にやさぐれていた20代前半、解離性障害による失明状態に陥りました(目に症状が出るのはめずらしいのだそうです)。
これを機に一念発起し、死ぬ気でがんばって、9桁売るホステスになりました。本当に死ぬかと思いました(涙)。でもそのおかげでお店を持つこともできました。それは追々書いていくとして。

先述したように、今回は育成歴を中心にしたいと思います。これからいろんな記事を書いていく中で、触れずにいられないことも多々あると思うので。


■夫婦間レ〇プで生まれました!

私は夫婦間レ〇プの末に産まれました。母はネグレクトやきょうだい間差別を受けて育ち、その家を飛び出したくて、好きでもないDV男である私の父と結婚をしました。

結婚後すぐに母は監禁され、窓でさえ1mmも開かないほど外から鍵を付けられていたそうです(祖父談)。食料もほとんどなく、小麦粉を水で溶いたものを食べていたとか。

父は母を監禁しておきながら、他の女性の家で暮らしていたそうです。私には同級生&腹違いのきょうだいがいるらしい。この時点で十分すぎるほどのクソヤロウです。

母が死なない程度にたま~に食料を持って帰宅し、殴る蹴る犯すの暴力を働いて消えていく・・・という結婚生活が約2年近く続きました。私の父、マジでクソヤロウです。母も見る目なさすぎですが、父がクソすぎて比になりません。

そんなこんなで私が生まれ、生後9ヶ月のときに両親は離婚しました。そのとき母は憔悴しきっていたのか、私の首を絞めたり、置いて出て行こうとしたりしていたそうです。祖父が救ってくれました、さんきゅーおじいちゃん!!


■血まみれ&骨折は日常茶飯事♪

離婚後は母方の実家で暮らしていましたが、詳細を書くと本当にキリがないくらい暴力三昧の日々でした。本当にキリがないので、みんなが絶句することだけを簡潔に書きますと、

・大人も手をつけられない熱湯に沈められる→2歳のとき、これが最古の記憶
・2ヶ月近く監禁されて危うく餓死しかける→小6の夏休みの思ひ出
・祖母から違法風俗店に売り飛ばされる→13歳、一時保護のきっかけ
・2階のベランダから放り落される→15歳、家を出ようと決めたきっかけ

世間様を大きく騒がせたのはこの4つでしょうか。今でもこの4つをうっかり話すと一般の方々はドン引いてしまい、私だけが「ウケるw」と笑っている状態になるので、あまり話さないよう気を付けています。

殴る蹴る放り出されるなどはもう日常過ぎて、何も起きない日を数えたほうが早いです。だからいちいち覚えてないんですけども、記事を書いてるうちにいろいろ思い出すと思うので、追々足していこうと思います。

あ、以前ちょっとだけ触れましたが、雪降る真夜中に裸でベランダに縛り付けられ、身体に雪が積もったときはさすがに引きました。これは小学4年生のとき、最愛の祖父が他界した直後の冬です。
祖父母・叔父叔母・母・私の6人家族でしたが、母や祖母の仕打ちから私を助けてくれたのはいつも祖父でした。祖父がいなくなってからは、まさに雪だるま式に我が家は崩壊し、暴力も加速していきました。


■10歳で働くことを決意!

血が出るとか骨折るとか放り出されるとかはまだいいんです。まあたまに死にかけたりしてますけど、まだいい。一番悩んだのは、祖父が他界してから食べ物がなくなったことです。

私の食事はずっと祖父が用意してくれていました。仕事の都合で祖父が不在の日は食事がなかったんですが、そういうものだと思っていました。祖母は祖父がいないと一切家事をしない人だし、母は仕事で夜しか帰らないし。

学校がある日は給食があるので、1日1食は確保できます。でも学校が休みになると、食べるものがないわけですよ。連休とか夏休みとか冬休みとか、本気で死活問題です。お腹が空いて万引きもしました、本当にごめんなさい。

そこで10歳の私が考えたことは、働くこと。

盗むにも限界があるし、捕まると親を呼ばれてまた血まみれになるし、でも食べ物はないし・・・っていう状態を打破するには、働く以外にないわけです。

※このときの私はまだ、児童相談所という機関があることすら知りませんでした。学校の先生や地元の警察&刑事さんたちも私の状況は知っていましたが、当時の児相に頼っても状況は変わらなかっただろうなーと思います。


■日当250円、超ブラック!

初めて面接に行ったのは、忘れもしない、地元の喫茶店。16歳だと大嘘をつきました。確かに年齢の割には大人っぽい見た目だったのですが、今思うとかなり無理があります。ありすぎます。でも雇ってくれました。これぞ神。

だけど嘘は必ずバレるんですよね、当たり前ですけど。履歴書の生まれ年がおかしかったり、干支の話になると答えられなかったり、いろいろありました。その度にバイト先を変える・・・という日々でした。

当時から飲食店を選んでいました。それは接客が好きだったわけでも何でもなく、賄いがあったからです。お金ももらえてごはんも食べられる、最高の仕事だ!!と思っていました。接客にはまったく興味ありませんでした。えへ。

13歳の夏休み、「うちにバイトにおいで」と声をかけてくれた人がいました。お弁当屋さんと精肉店を経営している2代目で、1代目のおじいちゃんがとっても優しい人でした。

と こ ろ が。

休みなく働いた約40日間を終え、受け取ったお給料は1万円でした。当時はバカだったので「わーい♪」と喜びましたが、今考えるとありえない低賃金、ブラックすぎて引きます。日当250円、時給31円。驚愕www

そんな私を哀れに思ったのか、生活指導の先生が新聞配達の仕事を紹介してくれました。学校公認のお仕事、最高です。それまで年齢を隠したり、素性を隠したりの日々でしたが、これで大手を振って働ける!

水を得た魚のようにチャリンコ暴走族と化し、朝刊&夕刊を配りまくって、中学生の割に稼ぎました。月収8万円くらいいただき、かつ販売店のご夫婦にはお弁当をいただいたりなどして、大変お世話になりました。

ま、そのお金も母や祖母に奪われたりしてたんですけどね。っていうオチ付きです。ぬはははは。


■このままでは母を殺しかねない!!

先述したように13歳で私は祖母に売り飛ばされ、違法風俗店で半年ほど働かされるという目に遭いました。

それまでの私は、母が怒り出すと足がすくんで動けなくなったり、声が出なくなったりしていました。やられるままで身を守ることもできなかったので、怪我も多かったんだろうと思います。

でも売り飛ばされた日を境に、何かがプツッと切れたような感じでした。それまで溜め込んでいたのであろう怒りが沸々とし、誰が見ても一発で分かるくらい目つきも変わりました。

「人を1人殺したと言われても不思議ではない目つき」

これが中学時代の私です(実際には人を叩いたことすらありません笑)。それ以来、自衛するようになりました。

できるだけ母と接点を持たないよう、母が帰宅する夜には家を出る生活。知らない人から見たら、ただの素行の悪いガキです。でも私には死活問題でした。なぜなら、母の暴力は月日を重ねる毎にヒートアップしていたから。

このままだと、私はいつか母に殺されるな・・・と真剣に悩んでいました。それくらい手加減がなかったし、殺意剝き出しで襲ってくるので、いざとなったら自分が殺されるか、自分が母を殺すか、どっちかだな・・・と。

実際、どうしたら母を殺せるかと本気で考えていました。私は人を殴ったりできないし、刺したりもできない、じゃあ毒物かな・・・とか。今考えたらゾッとします、実行しなくてよかったです。アブナイアブナイ。

そして15歳のとき、ベランダから放り落されたわけですが、運よくひどい打撲と膝が粉砕骨折した程度で済みました。病院に担ぎ込まれて、生活指導の先生が駆けつけてくれたとき、先生に言いました。

「もう限界。家を出る。高校には行かない」

当時は、親の暴力や家庭環境から逃げたい一心でした。そう思っていました。でも大人になった今振り返ると、私はきっと親を殺したくなかったんだと思います。そうしなくて済む距離まで離れたかったんだろうな、と。



あ゙あ゙あ゙あ゙~~~~~重たくなってきた、ここまでにしておきます。もうちょっとポップに書きたかったのにぃぃぃぃぃ。

こういう経緯で16歳で家を出て、ホステスになりました(締めくくりが雑すぎる笑)。


■今の私は過去をどう思っているか?

こんな感じで、まあ残念ながら幸せな子ども時代とは言えない中で生きてきたわけですが。今の私が過去をどう思っているかというと・・・。

さほど気にしてない( ̄▽ ̄)笑

いやね、後遺症的なものはありますよ、もちろん。精神的にも身体的にも、トラウマは残ってますし。

でも、なんて言うんでしょう、毒親だー!!とか、許せないーキィィィィ!!とか、親のせいでぇぇぇ!!とかは本当にまったくないんですよ。そりゃね、そういう時期もありましたよ、何せ殺しかねない勢いだったわけだし。

そういう怒りを持つこと、怒りを表に出すこと、誰かと分かち合うことはとても重要なステップで、その段階にいるときはそうすべきだと思うんですよ。私もそうやってきたし。

ただ、今現在の私はそうじゃない、というだけ。私個人は、過去の私を見たときに、

「親に怒りを抱いて恨んで親のせいや環境のせいにしてきたけど、それも結局は親に縛られて振り回されてるのと変わらない。自由になりたくて家族を捨てて外に出たのに心はずっと不自由じゃん、それじゃ私がかわいそうだ」

と思ったんです。もうそういうのもやめよう、と。

もしも違う環境で育っていたらどうだったかな?と思うことはあります。でもこの人生だからこそ出会えた人たちが大勢いるし、この人生だからこそ分かる痛みもあるし、この人生だからこそ今の私が存在するし。

今の私を好きだと言ってくれる人たちがいるし、それでいっかなーと思っています(軽い)。そう思えるまでなかなかの時間とパワーを要しましたけどね。

現在の私はとってものほほ~んと生きています。これは完全に相方のおかげ。彼はとっても穏やかなので、穏やかウイルスが伝染しています。善玉菌並みの働きだと思います、マジで。
バックグラウンドがダークだと、幸せや自由を手にするのも一苦労ですね。本当に精神をやられてしまっている人達も大勢いるし。虐待や性被害の爪痕って根深いから、外からは普通に見えてもいろんなところで支障をきたすし。

全員がハッピーエンドにはならない、ということは重々承知しているのですけど、こういうヤツもいるんだよってことだけでも伝われば幸いです^^


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