【ショートショート】『バイオリズム』

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 所沢雄二は市内の小学校に通う六年生だ。クラスの友人に対して明るく振舞う性格は、女の子から人気で仲の良いグループの中心だった。
 しかしある時から彼の性格は一変した。音楽好きな父の勧めでバイオリンを習い始めたのがきっかけだが、雄二は一つのことに熱中するタイプで周りを見ようとしなくなった自分に気が付いていなかった。「習い事は何よりも大事」と教え込まれていたためか、無意識に友人を避けるようになっていたのだ。
 常に心の変化を監視し続けることは不可能だ。出来るとすれば本人以外、例えば両親が常に子供の様子を観察し、もしかしたらと想像することぐらいで、無口になった雄二の心中を誰も分からない。
「僕はこたつなんていらない。一度入ったら出られなくなる」
 いつも灯油ストーブのダイヤルを回し、電池切れになって役に立たない点火装置の代わりにチャッカマンで火をつけるのが彼の日課になっていた。一回で点いたら飛び上がるほど嬉しくなる、とはいかない。
「雄二にはストーブ当番、任せようかね」
「どうせたまたまだろ」
 母親が褒めるが仏頂面でそう答えた。
 彼の家は冬場になってもこたつを置かない。バイオリンに熱中している雄二が「こたつは人をダメにする。僕の足を引っ張るならいらない」と嫌がったのを聞いて、すぐに撤去した。
 中学に上がってからも変わらずバイオリンにのめり込んでいた。コンクールに幾たびも出場し、入賞したこともあった。
 ある日、近所の橋の上から川面を眺めていた雄二は奇妙な物を発見した。最初は黒いゴミ袋が石に引っ掛かっているだけかと思ったが、よく見てみると人だった。
 川岸まで降りてみると、その人は同級生の時生(ときお)希子(きこ)だった。うつ伏せに倒れ、目を見開いたまま動かない彼女を見下ろしていた雄二は、躊躇なく遺体に手を触れる。手のひらに血が付着した。
「温かいんだ、人の血って」
 紅に染まった水は河川の流れに逆らわず、下流へ向かう。その光景が人の命と時間の流れの真実をさらけ出している。何の気なしにここへ立ち寄ったのは、友人との思い出の場所だったからだが、まさか同級生が倒れているとは思いもしなかった。昔の風景から別の場所のように変わってしまったが、対岸にある有料駐車場はまだ残っている。
 木製の橋が強風で揺れ、今にも壊れそうだ。腐りかけの丸太から木くずが落ち、彼の目に入った途端激しい痛みが襲った。道路に上がりうずくまっていると、買い物帰りの主婦が声をかけてきた。
「大丈夫? ちょっと見せて」
 優しい雰囲気の主婦は彼と目線を合わせ、目元の状態を確認する。幸い傷はついておらず、水で洗い流すだけで大丈夫そうだと主婦は一安心した。雄二はただ、血の付いた手で目元を拭っただけなのだが、瞼を負傷していると思ったようだ。
「一度お医者さんに診てもらった方が良さそうね。お家に帰って家族の人に連れて行ってもらって」
 主婦は川の方に目もくれず、買い物袋を揺らしながら去っていく。夕日が彼女の前方に淡い光のカーテンを作り、行く手を阻むようだった。耐えきれず手をひさしがわりにしながら次の角を曲がった。彼女の姿が見えなくなるのと同時に、雄二がたびたび口にする言葉を今日も発する。
「死んでしまえばいいのに」
 看護師の母が珍しく夕方に帰宅し、高校受験を控え勉強中の息子にケーキを買って来た。部屋に入ると雄二が棚に飾っているバイオリンコンクールの入賞盾を見つめたまま呆然としていた。
「雄二どうしたの? 勉強は?」
「めんどくさい」
「気分転換にバイオリンでも弾いたら? 昔は毎日弾いてたじゃない」
「そんなのどうでもいい」
 母親はケーキをテーブルにそっと置いた。会話が弾まないのはいつものことで、一人で考え事でもしたいのだろうとそっとしておくことにした。
 彼は翌年のバイオリンコンクールを欠場した。指が動かなくなったのだ。きっとスランプだ、しばらく休めばまたうまく弾けるようになると、バイオリン教室の講師は出場予定表の名前に横線を引く。
「雄二君。落ち込まずに今は他の事を考えなさい」
「わかりました。でも、先生」
「なあに? バイオリン嫌いになったの?」
 雄二は何も言えなかった。
 時生希子の死因を自殺だと考えていた警察が、急に他殺だと公表したのは雄二が死体を目撃してから二年後のことだった。川の上流で血の付いた石が発見され、DNAが一致したのだ。端から飛び降りた際に頭を打ったとされた打撃痕は何者かに石で殴られた後だった。その後犯人が遺体を川に流したのだと、担当刑事は雄二の元を訪れ話した。
 それからしばらく雄二は何も手に付かない状態で部屋に籠っていた。気付けば夕方になり、暗い部屋のベッドに寝転がっていると、「大きな荷物が届いたわよ」とドア越しに母親の声が聞こえ、一階に降りた。
 こたつはリビングにのっぺりと存在していた。フローリングだろうとお構いなしに、カーペットなどただの飾りと言わんばかりに。足の長いダイニングテーブルに負けず劣らず鎮座していた。
「雄二、今から二階に運ぶから手伝って」
「なんだよ、ここに置くんじゃないの?」
「馬鹿ねぇ、あんたの部屋に置くんじゃない。昨日言ったでしょ」
「僕はこたつが嫌いなんだ。分かってて言ってるの?」
 昨日は眠気が酷く、母の言葉など耳に入ってこなかった。まったく記憶になかったが、仕方なく二人がかりで自室に運ぶ。
 突如として自分の部屋にやって来たこたつを眺めながら呟く。
「まったく。お前は人の邪魔ばかりする。一度入ったら逃がさないと一生懸命に熱を発する……。だけど今日は仕方がないから入ってやるよ」
 雄二はごそごそとこたつ布団をめくり、体を滑りこませる。足先から徐々に暖かくなってきて、外に投げ出していた両腕も入れた。
 手のひらに付いた人の血を見た瞬間に、彼の指は言うことを聞かなくなった。指を大切にしろと何度も言われていたためか、ちょっとした傷でも大騒ぎしていたのにあの日を赤いにどうでも良くなった。
「雪景色と夕陽、どちらを取るかと言われたら、きっと夕陽を選んでた」
 国語の授業で出てきた文章を引用し、心境を口にした。次第に指先も温かくなってきて、今なら弾けそうな気がすると思った雄二は二年ぶりにバイオリンを手にした。緊張がほぐれた指先は別人のように、次々と弦を押さえる。
「こたつ、君もなかなかやるな」
 それから雄二はこたつが大好きになった。
 彼は人の血に触れた時、あまりの温かさにバイオリンの冷たさが嫌になった。温かい方が気持ちいい。だが水死体の希子に体温が残っているはずはなく、雄二が感じたのはなんだのだろうか。
 再び事件のことを思い出した時、雄二は二十二歳になっていた。
「皆様、所沢雄二バイオリンリサイタルにお越しいただき、ありがとうございます。早速ですがご登場いただきましょう」
 コンサートホールの壇上に、真剣な表情の雄二が現れた。
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