『個別の授業で面と向かっては言いにくい話をコラムにしています。ですのでタイトルも「ひとり言」。日々の指導で気づいたあれこれを綴ります。』
論説文では環境問題をはじめ、いわゆる社会問題をテーマとした文章も出題されます。
しかも通り一遍の議論ではなく、かなり込み入った話題にまで踏み込んでいることも多く、昨今の中学受験の難易度の高さを思わされます。
さてひるがえって私ですが、小学5年生のときの国語の先生が、やたら環境問題を熱く語る人で、その影響もあり子ども心に未来を憂えていました。
とは言え10歳かそこらですから、問題意識と呼べるような高尚なものだったとは思えません。
しかし気にはなっていたわけで、国語の論説文でその手の文章が出れば、興味・関心をもって能動的に読んでいた可能性ぐらいはあります。
じじつ中学生になってからも環境問題への関心は途絶えず、岩波新書で経済学者・宇沢弘文さんの『自動車の社会的費用』を読んだりしました。
私は読んだ本の内容をいつもきれいさっぱり忘れてしまうのですが、宇沢氏の本で今でも記憶に残っているのは"歩道橋批判"のくだりですね。
今街なかにどれぐらい歩道橋があるかわかりませんが、少なくとも私の子どもの頃は普通に見かけました。
宇沢氏によれば、歩道橋とは自動車社会が生んだまさに史上最悪の発明品。
自動車を勢いよく走らせるために、なぜ人間が階段を昇り降りして遠回りしなければならぬのかと厳しく指弾していたと思います。
…話がややそれましたが、私が思うのは、今の小学生にとって社会問題への意識はどうなっているのかという点ですね。
塾のテキストや模試の文章では、それこそ親ガチャから生物多様性、ジェンダーギャップにいたるまでさまざまな論点にふれています。
しかしいざ勉強が終われば、それらのトピックはどこか遠い世界の話題でしかなくなり、自分なりの関心のあり方とは無縁なままなのでしょうか。
自身の生活体験や身の回りの出来事、自由研究で選んだテーマや他教科での学びとつなげて、1つでも2つでも積極的な関心をもてれば…。
それで国語の読解がいきなり伸びるとかでないにせよ、少なくとも、論じられた内容に生き生きと反応する機会は増えてくるのではないでしょうか。