「マンハッタン1999」 ・・・西55丁目の恋愛小説①

記事
小説

 この物語はまだ携帯電話やインターネットやEメールがオフィスや家庭に普及する直前で、コロナもテロリストもトランプもいなかった今から約20数年前のニューヨーク・マンハッタンを舞台にした、どこにでもありそうだけれど誰もが主人公になれそうなありふれた恋愛小説である。
 東京在住の音楽ディレクターの堤亮平は仕事で定期的にニューヨークに通ううちに、偶然、旅行代理店の通訳ガイドとしてマンハッタンの55丁目に暮らす藤堂綾乃と知り合い、恋に落ちる。
 その恋の舞台になる1999年から2000年のミレニアムに変わる頃の活気あふれるマンハッタンのレストランやホテル、料理、街の場面などが当時のありのままのリアルな情景と実名描写で詳細に表現されている。
しかし、やがて2001年同時多発テロが発生、ふたりの心は離れ離れになってしまうのだが・・・。

第一話「JFK」
 この物語は僕がニューヨークで彼女と出会ってから約2年あまりのできごとと、それから後の時間の経過をつづったものである。その間には2001年の9月11日の同時多発テロが起きている。ある意味で、ワールドトレードセンターがまだロワーマンハッタンで美しいシルエットを誇っていた日まで、ニューヨークの物価もいまほど狂乱しておらず、ホテルもレストランも安くて、秘密にしておきたいようないいところがたくさんあって、街角にはこれから僕が書くような、名もない小さな恋の花がいくつも咲いていた。
 物語に出てくるほとんどのホテルも、レストランやカフェも今は名前が変わったり、なくなったり、まったく別な店に変わってしまっている。
 だからこそ、これはそんな90年代の終わり、素敵だったマンハッタンを舞台にした、かげろうのような、夏の逃げ水のような、恋愛小説スタイルの思い出の写真集みたいなものなのかもしれない。
 彼女と交わしたメールや画像のようなものは、今は手元に残ってはいない。
 だからというわけではないが、彼女への想いはかえってまだ今も輝きを失わずになつかしく甘い記憶として僕の心に残り、期限切れの古いパスポートに乱暴に押されているアメリカ合衆国のイミグレーションの赤インクの入国スタンプの日付の中に封じ込まれている。そして、その期限切れのパスポートの最後のページには、ロックフェラーセンターの大きなクリスマスツリーのイルミネーションの前にぎこちなく寄りそって立つふたりのちょっとピントが甘いプリント写真が今も一枚はさみこまれている。  
 あの頃の記憶をジグソーパズルのように張り合わせてみると、僕の心の隅で音楽が鳴りはじめる。僕は彼女からマンハッタンの街角でどのくらい素晴らしい微笑をもらったことだろうか?後悔や憧憬に似た、いとおしい気持ちは彼女が僕の前からいなくなってしまった日からすこしずつ小さなボディブローのように僕の魂を叩き続け、そのパンチはだんだんと痛みをもたらし、胸を絞め続けた。
僕はなぜ、あの頃、彼女をもっと愛そうとはしなかったのだろうか?  そして、僕はなぜもっと早く、彼女を取り戻しに行かなかったのだろうか・・・?

1999年5月14日金曜日
 美しく晴れ渡った一日が終わり、夕日は細長いマンハッタン島の西側のハドソン川の対岸のニュージャージーに沈み、摩天楼を見上げる四角く高いスカイラインには茜色の黄昏が映し出され、楽しい初夏の週末の夜をふちどろうとしていた。  
 マンハッタン西54丁目のホテル「リーガロイヤル」の24階の一室。
 僕はシャワーから出て白いタオル地のバスローブ姿でベッドサイドのラジオのスイッチ入れ、着替えをはじめた。 
「T ! G ! I ! F!・・・。 T ! G ! I ! F!・・・・」  
 ソリッドなロックギターのイントロにのせて、どこかの局のラジオのDJがテンションを上げてテーブルをたたきながら呪文のような言葉を絶叫しはじめた。それは
「Thanks God! It’s a Friday!」の文章の単語の頭文字の「T.G.I.F.」なのだ。 
「神様、ありがとう!やっと金曜日の夕方が来た!みんな!あと少しだけ働けば週末だ!さあ!今夜は遊ぶまくるぞ!」
という合言葉なのだ。
 FMのチューナーを106.7に回す。この街に来るといつも聴くLITE FM 。
ちょっとなつかしくダサめの80‘Sの古臭いロックやバラードをずっと流している局だ。
スピーカーからビリー・ジョエルの「New York State of Mind」が流れはじめた。
 僕は、冷蔵庫のミニ・バーからニューヨークの地ビール、ローリング・ロックを取り出し、ひとくち飲んでベッドの隅に腰かけその歌を聴いた。

♪Some folks like to get away Take a holiday from the neighborhood 
誰もが退屈な毎日を抜け出し、どこか旅に出かけたいと思ってる。
 ♪Hop a flight to Miami Beach or to Hollywood 
マイアミのビーチのリゾートとか、あたたかいカリフォルニアのハリウッドとか ひとっ飛びに行きたいと思ってる。 
♪But I'm taking a Greyhound on the Hudson River Line 
でも、僕は今、ハドソン河沿いを下ってマンハッタンに向かう グレイハウンドバスに乗っている。 
♪I'm in a New York state of mind 
実は心はニューヨークでいっぱいなんだ。 
♪I've seen all the movie stars in their fancy cars and their limousine 
ミーハーに豪華なリムジンに乗ったムービースターを見にいったり 
♪Been high in the Rockies under the evergreens 
大自然の緑がまぶしいロッキーの山々に登ったりもしたりもしたけど。 
♪But I know what I'm needing 
でもね、結局行きたいところは、わかってる。 
♪And I don't want to waste more time 
これ以上時間を無駄したってしようがない。 
♪I'm in a New York state of mind 
そうさ、僕のこの思いはニューヨークにあるのだから。 
♪It was so easy living day by day 
毎日の仕事や暮らしは、そうだな、けっこう気楽なもんだけど。 
♪Out of touch with the rhythm and blues 
でも、大好きなリズムアンドブルースは聴こえてこない。 
♪But now I need a little give and take 
だから、そろそろ必要になってきた 
♪The New York Times, The Daily News 
ニューヨークタイムズ、ディリーニューズの記事の中の世界のような 
♪It comes down to reality 
リアリティを感じる毎日が欲しい。 
♪And it's fine with me 'cause I've let it slide 
いつか自分の中で置き去りにしていた、そんな毎日がやっぱりしっくり来るんだ。 
♪Don't care if it's Chinatown or on Riverside 
チャイナタウンでもリヴァーサイドでもどこでもいい 
♪I don't have any reasons 
この街が好きとか嫌いとか、そんなことに理由なんかいるかな? 
♪I've left them all behind 
またすべてを捨ててこの街でやり直そうかな
♪I'm in a New York state of mind 
心はいつでもニューヨークでいっぱいだから
 僕と僕のボスは今朝、成田から全日空のビジネスクラスでニューヨークJFK空港に到着した。全日空の10便は午前11時に14時間の時差がある成田を飛び立ち、地球を左から右、つまり西から東に吹きつづける偏西風にふわりと乗り12時間のフライトで同じ日付の朝の9時にJFKに着陸する。  
 当時、全日空が使っていたのはデルタ航空の国際ターミナルで、この時間帯は到着のフライトがほとんどなく閑散としていた。あっという間にイミグレーションを抜けて僕らは10時前には出迎え口で待っているエドウィンと出会えた。  
「ハーイ、RIOさん!Nice to meet you!」  
「エドゥイン!Buenos días!こちらは、僕のボスのミスター・カナマル」  エドウィンは小太りの腹をくっつけて僕に握手をして引き寄せ抱きしめた後、
「ミスター・ツツミは大切な友達でいつもとてもお世話になっています」
 というようなことを英語で言い、すこし真面目な顔で金丸にぎこちないお辞儀の挨拶をした後、僕を見つめながら、  
「Welcome back to the hell!」(地獄にようこそお帰り!)
と、ニヤリとジョークを飛ばし、僕と金丸のスーツケースをカートに積んだ。  エドウィン・ベラスコは、リムジンドライバーで大切な友人でもある。僕と同じくらいの30代半ばのエクアドル人だった。
 高校を出ると遠い親類を頼ってエクアドルのキトという首都からニューヨークに来て、他の中南米人の男の子と同じのようにアウトオブ・マンハッタンのクイーンズの小さなデリの厨房で片言の英語で働き始めた。真夜中に店の掃除をしたり、ベーグルサンドウィッチにはさむラックと呼ばれるスモークサーモンやパストラミ・ハムの塊をスライスした。
 やがてイエローキャブのドライバーを何年か務め、クイーンズの小さな会社に雇われリムジンのドライバーを始めた。今は、そのエクアドル人の社長から古いリンカーンを個人的に借りて歩合でリモ(リムジン)を転がしているが、あまり儲かってはいない。リムジンというのは日本で言えば黒塗りのハイヤーというところだが、ニューヨークではもう少しカジュアルで予約制の時間貸しのタクシーのようなもので、ビジネスマンや空港に向かう旅行者たちが気軽に利用できるものだ。
 エドウィンは背が低く往年のサッカーキング、マラドーナに感じが似ている。ラティーノらしい黒髪と小太りの背格好で愛想のいいスマイルと根っからの陽気さにはほっとできる安心感がある。しかもスペイン語訛りの英会話は分かりやすいし片言の日本語にもどこか愛嬌がある。  
 彼は僕の名前、リョウヘイをもじって「RIO」というニックネームをつけて「RIOさん!RIOさん!」と呼んだ。  
 エドウィンは僕らと会う何年か前にワカナという日本人女性と恋に落ちて結婚をしてアッパーイーストのはずれの97丁目にアパートを借りて住み始めたが、ある日突然、その彼女が日本に帰ってしまったのだという。
「日本に彼女を連れ戻しに行きたいんだ」
が、エドウィンの口癖だった。
 本当に彼女が妻だったのか、恋人だったのか、ただのルームメイトだったのか、なぜ帰国してしまったのかは知る由もないが、エドウィンが女にたかったり、騙したりできる男ではないことだけは確かだった。むしろそのワカナという日本人の女性の方がエドウィンを置き去りにしたのではないかと僕は漠然と思っていた。
 僕たちはだだっ広い空港の駐車場を歩き、ワックスがはげかけた決して新しくはない黒いリンカーンをさがして乗り込んだ。
 最近のニューヨークは暑いとか寒いとか東京はどうだとか、とりとめのない話をしながら良く晴れた朝のハイウェイに乗って、昔、万国博覧会の会場だったというフラッシング・メドウスの大きな鋼鉄製の地球儀のモニュメントを眺め、ところどころ渋滞に巻きこまれながらマンハッタンに続くミッドタウントンネルを抜けた。  
 僕と金丸には長いフライトと時差ボケと目的地に着いた安堵感で頭と体が車のシートに吸い込まれてしまうような疲労感があったが、車の窓を開けると少しなつかしいような埃っぽい、なぜかほんの少し焼き栗のような香りがするこの街の匂いが元気をくれた。  
 30分後、僕たちは当時日系ホテルでもあったリーガロイヤルホテルにアーリーチェックインして簡単にシャワーを浴び着替えた後、時差調整の意味で金丸を誘い、57丁目と5番街のプラザホテル前から緑がまぶしいセントラルパークとその周辺をのんびりと散歩し、屋台でホットドッグを食べ、日向ぼっこをした。部屋に戻ると睡魔に襲われ眠ってしまいそうだったからだ。
 金丸が眠気にいよいよギブアップしたのでホテルに送り、僕はそのまま48丁目の楽器街に下り、「サム・アッシュ」などのショップをのぞいた。試しに弾いてみた大幅に値引きされていたギルドのアコースティックギターがとても気に入り、衝動買いしてしまいそうだったが、まだ当分この街に滞在するからまた来ればいいと自分に言い聞かせ、さっきホテルに帰ってきたところだった。
 夕方。電話が鳴った。明瞭だが少し甘くハスキーな若い女性の日本語だった。
「もしもし、ツツミさんですか?」 
「はい、堤ですけど」 
「こんばんは。私、トウドウと申します。ドライバーのエドウィンとこちらにお迎えに来ました。今日はよろしくお願いします。エドウィンが車を離れられないので、私、いまロビーなんですけれど、どこでお待ちしていましょうか?」  
 ベッドテーブルのデジタル時計は午後6時55分を表示していた。
 まだ日は暮れておらずビル街の窓にはハドソン川に沈む夕日のオレンジ色の残光が反射していた。
 待ち合わせは7時だった。
 今夜はこれからエドウィンのリムジンと彼が同行してくる女性ガイドの案内で、ニューヨークの人気のレストランとクラブをまわるという趣向で出かける予定だった。 
 トウドウと名乗るその人は、女性ガイドに違いなかった。 
「ああ、はい。実は、いっしょに来たウチの事務所の社長が時差ぼけで爆睡して眠ってしまって。でも、さっき電話で起こしましたので、今、出かける準備をしていると思います。  
 ああ!そうだ。とりあえず僕の部屋の方に上がってきていただいて、いっしょに全員集合して降りませんか?」  
 まだ少し支度に時間がかかるし、社長の金丸の部屋も同じフロアだったので彼女が来てくれればゆっくりとこの部屋で落ち合えると思った。 
「えっ?お部屋に、ですか?は、はい2415ですね。それでは、お伺いいたします」
 彼女は、少し戸惑ったように、答えた。  
 僕はまだ荷を完全に解いていないスーツケースから新しいシャツを引っ張り出して袖を通し、グレーのグレンチェックのスラックスをはき、バスルームで髪の毛を整え、ベッドルームと居間の間の仕切り戸を閉めた。  
 ドアのチャイムが鳴った。
 初めて出会った瞬間だった。
 彼女は、白いシャツと明るめのグレーのジャケットのパンツスーツ、小さな革の黒のバッグを肩に掛けて大きめのシステム手帳を抱えていた。  
 凛とした背筋に、長くつややかな栗毛色の髪の毛はゆるく外側にウェーブしている。ピンク系のリップが似合う、両端の少し上がった肉厚の唇。大きな瞳が笑うと、すこしだけ目じりが下がり愛らしかった。  
 美しく理知的な人だと思った。  
「はじめまして、トウドウです。トウドウアヤノです」
 彼女は会釈して無言で部屋に一歩入った。
「ああ、このホテルは全部スイートなんでしたよね。じゃあ、お邪魔します」  後々聞いたのだが、会ったこともないはじめての女性をいきなりベッドのある部屋に呼び寄せるという僕の無神経さに彼女は少し面食らったらしい。  「はじめまして、堤です。堤亮平です」  
 僕は彩乃の美しさに動揺しながら名刺を差し出した。
 僕は彩乃と出会う前の一年間、すでに何度かニューヨークに通っていた。 
 7年半勤めたレコード会社をやめ、すでに独立して音楽制作会社を立ち上げていた先輩の金丸の誘いで転職をしたのは30歳になった頃だった。
 現在のボスでレコード会社時代の先輩だった、金丸健一は腕利きのディレクターとして多くのヒットの実績を持ち、売れっ子の有名なアーティストたちからも信頼され、今はフリーのプロデューサーとして活躍していた。有名大学のジャズ研出身でトランペットを吹いていて、学生時代は有名なロックアーティストのバックバンドのメンバーになり、これでも人気者でモテモテだったんだぞ、というのが彼の口癖だった。僕より6歳年上でどちらかというと音楽的でクリエィティブな素養よりもマネージャー的な資質があり、レコード会社に就職すると二足のわらじは中途半端だと言う理由で、ミュージシャンをすっぱりとやめた。
 芸能界という魑魅魍魎の世界を上手に泳ぎまわり、嗅覚と政治力があり、義理人情に厚い体育会系の男っぷりのよさでのし上がってきて来た。酒も女も大好きな方だったが、それものめりこんで大失敗するほどではなく、目端が利いて事務所の経営にも手腕を発揮した。僕はそんな豪快で情の厚い金丸を尊敬し、信頼していた。  
 その事務所に移ってから数年が経ち、金丸と僕のふたりの仕事は順調にますます忙しくなり、我々の事務所は業界でも一目おかれる存在になっていた。
 あえてオフィスは大きくせずに著作権や原盤権などの権利関係の知識に強い経験豊かな女性デスクと、ディレクター志望の若いアシスタントを雇って金丸と僕の個性を前面に押し出した事務所にする、というのが彼の経営戦略だった。今、振りかえると当時世の中はバブルの余韻がまだ残っていてミリオンヒットが一年に何タイトルも出る、音楽ビジネスとしては最後の古き良き時代だった。大手資本のレコード会社がまだ力を持ち、デジタルコンテンツといわれるネットの音楽配信も後に細分化されるレーベルビジネスもまだ発展途上で、現在は音楽制作の主流になっている、プロツールスというマックのコンピュータで音楽を作るシステムを持ったスタジオがようやく増え始めてきた時期だった。
 ちなみに、1999年はなんと日本国内でも宇多田ヒカル、GLAY、globe 、ZARD 、椎名林檎 、SPEED、スピッツ 、浜崎あゆみ、ゆず、ミスチル、MISIAなど30タイトルものミリオンセラーが出るほどCDセールスは黄金時代だった。
 売れているアーティストや期待の新人は1時間何万円もするレコーディングスタジオを何週間もロックアウトで借り切って、生のドラムやベース、ギターやピアノで音楽制作をするのがデフォルトだった。新人でも1曲のレコーディング費用に百万円単位、アルバム制作にも一千万円単位の予算で制作依頼があり、なおかつ制作した作品が売れるとプロデュース印税も入ってくる契約になっていた。  
 その頃、金丸はある大手レコード会社の役員と組んで大型新人の男性アーティストをデビューさせようとしていた。大きな金も権利も動く業界的に言えばとてもいい「素材」だったのだ。  
 20歳で関西の大学を中退したその新人は福永圭介という本名で、レコード会社主催のオーディションコンテストに応募して結果的に準グランプリを獲得した。
 「いいか、亮平、本当にいい素材は絶対にグランプリを獲らしたらダメなんだ。本人が図に乗るし周囲がそういう目で見て甘やかすから、勘違いしてすぐに使い物にならなくなってしまう。実はグランプリとは本来は実力的にもナンバー2か3のどこにもいそうな優等生に獲らせて、すぐにデビューさせてコンテストの広告塔をさせるんだ。  
 『ああ、こんなものでグランプリがとれるなら来年自分も応募してみよう』、とプロを目指す若者たちに思わせる。でも本当にじっくり育てて大きなビジネスにするのはあえて準グランプリ、ナンバー2にしたヤツなんだ。あのサザンだってデビューのきっかけになったコンテストでは確か2位か3位だったはずだ」  
 そのコンテストを裏で仕切っていた金丸は僕にそう言い、金丸はケイスケのデビューまでの物語を描いていた。 
「準グランプリを獲得した後、もらった賞金でニューヨークに渡りレストランの皿洗いやピアノの弾き語りのアルバイトをしながら貧乏生活をしてソウルシンガーとして修行を積む。2年後オフブロードウェイのミュージカルとか、メジャー系のレーベルのオーディションに合格。チャンスを手にしてアメリカでレコーディングしてライブツアーを成功させ、鳴り物入りで帰国して本格的に日本デビューだ。
 ということで、この俺が描いた「絵」を亮平、おまえが形にしてくれ。経費は用意する」  
 と、金丸がこの話を僕に打ち明けたのが、一年前の97年の夏のことだった。  僕がニューヨークを個人的にも好きで、学生時代のサークルの仲間だった友人の女性がジャズミュージシャンと結婚してニューヨークに住み、エンタテイメント業界のコーディネーターなどのコネクションがあることも知っての金丸の提案だった。
 僕が生まれて初めてニューヨークに行ったのは、何年も前の晩秋のことだった。 その頃レコード会社に入社して数年が経ち、宣伝部に配属されていた僕は、広告代理店主催の招待旅行で当時ロングラン続けていたニューヨーク・ブロードウェイ、ウインターガーデンシアターのミュージカル「CATS」を観るという、たった2泊4日の業界人ツアーに会社からの研修出張という形で参加した。  
 北米大陸に渡ったのは初めてではなかった。大学4年の夏休み、僕は、高校時代からの友人3人でアメリカ合衆国の地図の左半分を1ヶ月間旅行した。  
 まずツアーの参加者は当時まだあったパン・アメリカン航空のジャンボ機でサンフランシスコに飛んだ。そして全米の長距離バス路線をネットするグレイハウンドの一ヶ月有効のディスカヴァーパスを支給され、30日後にロスアンゼルスの指定されたホテルに集合せよ、その間はすべて自分の経費で好きなところで好きなことをしてホテルでも野宿でもして放浪しろという、今考えるとなんとも乱暴で安易な企画の学生ツアーだった。  
 到着した日から2泊はサンフランシスコ市内の安ホテルが用意され、オリエンテーションや出発式のようなものがあった。我々は結局、最初の1週間をサンフランシスコ郊外のバークレーにある大学、UCバークレーのドミトリーに宿泊した。大学が夏休みになる時期は、同じ世界から旅行で訪れる学生たちに一泊8ドルくらいの安さで学生寮を開放するという制度が当時あったのだ。   この大学のキャンパスは、67年の古い映画「卒業」で学生役だったキャンディス・バーゲンが、恋人のダスティ・ホフマンに母と自分に二股をかけられ、傷心の恋心を抱いてサイモン&ガーファンクルの「スカボロフェア」をバックに俯瞰で映し出された広い大学のキャンパス歩く場面に使われた。僕たちはそこでつかのまの留学生気分を味わった。 
 その後僕らはソルトレイクシティ、デンバー、エルパソへと周った。グレイハウンドのパスで国境を越えてメキシコにも周遊できることを知り、そこからは単独行動になり、メキシコに入りチワワというチワワ犬の原産地でもある町から銅の谷という深い渓谷を列車で越えて北上し、ティファナからサンディエゴに上りロスに戻り、最後にばらばらになっていた友人たちとカリフォルニアのカーメルという美しい海辺の町で合流して小さなコテージで夏の最後の1週間を過ごした。  
 そんなツアーの仲間のひとりに機内で知り合い、UCバークレーまでいっしょだったブルース・リーに似たがっちりとした体型の大阪の市立大の4年だという無口で静かな学生がいた。  
 西海岸から彼はたったひとりでニューヨークに向かうと言った。 当時、ニューヨークはまだまだ危険な街というイメージがあり、そこにひとりで、しかもグレイハウンドバスを丸3日、72時間も乗り継いでアメリカ大陸を横断して行こうという彼の勇気と意志の強さにみんな息を飲んだ。 
「ニューヨークで本場のジャズを生で聴きたいんだ」  
 彼はそう言って小さく手を振りスーツケースを引きずって、サンフランシスコのダウンタウンのはずれにあったグレイハウンドのバスデポに消えた。  それから彼とは現在にいたるまで一度も会っていない。フルネームの名前も連絡先も聞かなかった。その時心に描いたニューヨークはマイルス・デイビスの青いモノクロームのジャズレコードのジャケット写真のようにさびしげだった。
  時は流れ、僕は大学を卒業し、アマチュアバンドをやっていた関係でできたコネでレコード会社に新卒入社した。  
 その後91年にニューヨークに行くことになるまで僕の中のニューヨークはあの夏の日、サンフランシスコのバスデポで彼を見送った場面で止まったままで、まだ見ぬブルーグレイのニューヨークを心の隅に置き去りにしたままだった。91年にミュージカル「CATS」を観た初めてのニューヨーク。たった48時間の滞在では、42丁目のグランドセントラル駅の上にある「グランドハイアット」に泊まった。  
 記憶にあるのは、日本でもカリフォルニアでもない11月の冷たく肌を刺す、インディゴブルーの真っ青な空から降り注ぐ東海岸の硬質ガラスのような光と風、屋台で売るプレッツェルの香ばしい匂い、マンホールからたちのぼる蒸気、イエローキャブのクラクションや深夜のけたたましいパトカーの電子音。地下鉄で行ったグリニッジ・ヴィレッジのニール・サイモンが描く映画のセットのような古い街並み。 
 たった2日間で僕はニューヨークのすべてに魅了され、またここに絶対に戻って来たいと胸を焦がした。

パンナム747.jpg

つづく



コラム MUSIC FILE
あの頃NY行きの飛行機で聴いていた曲①
「Street Life」by  The Crusaders & Randy Crowford /1979
クルセイダースを知ったのはグループのキーボード奏者であった、ジョー・サンプルの存在からだった。あの頃、彼が発表したフユ―ジョン系のアルバムとしてはOLなど若い女性たちにも人気だったアルバム「Rainbow Seeker」や私の当時一番好きだったカリフォルニアの小さな美しい海の町の名をタイトルにしたアルバム「Carmel」はロマンティックなピアノの抒情詩だった。
しかしクルセイダーズはどちらかというと男性的なジャズとソウルの匂いのする重厚なサウンドが魅力のグループで、今もその作品は古さを感じさせない本物感にあふれている。ビル・ウィザースをシンガーとしてゲストに迎えた
「Soul Shadow」は圧巻の迫力だし、この「Street Life」では、ほぼ無名だった女性シンガーのランディ・クロフォードを一気にスターシンガーに押し上げた。この曲での彼女の歌はうまいのか下手なのかわからない不思議な魅力があった。曲をつくったジョー・サンプルはインタビューでこの曲のモチーフはロスの大通りであると言っているが、私はこの曲を聴くと、いつもNYのマンハッタンの夜のストリートを仕事が終わってアパートに急ぐ、夢に押しつぶされそうになりながら生きのびている女性の姿を思い浮かべ、「きっといつかびっくりするような奇跡が起きるよ、人生はそう悪いものじゃないから」と声をかけてあげたい、そんな気持ちに駆られるのだ。








サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す